放蕩息子は確率的に未来を拓く

hagi2021/08/26(木) - 23:09 に投稿

今日、ふと放蕩息子のたとえを想起した。礼拝で聞いたからというのは否定しないが、突然、放蕩息子がいなければ進歩は起きないのではないかと思いついたのだ。

ルカによる福音書の「放蕩息子」のたとえ
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

「下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」って、少し考えると普通の人にはできない行為だ。普通、そんな勇気を持っている人はいない。

私は、日経の「私の履歴書」を読むのが好きだ。今月の話に限らないが、親が意図したかどうかはわからないが、しばしば親が放蕩の種を撒いていると思われる事例は少なくない。放蕩して消えていくケースはあるだろうが、飢饉で生存の危機に瀕しなくても自分のヤバさを感じない男(ジェンダーバイアスで失礼!)はいないと思っている。現実逃避していても、それこそ何らかの理由で脳が破壊されるのでなければ、自分を見つめ直すことから逃げることはできない。

自分のダメさに向かい合った時に、初めて射してくる光はあるのではないかと思ったのだ。

(比喩的だが)遠い国に行って、散財する人がいなくなると、全ての人に緩慢な死が襲ってくるような気がする。

放蕩息子がその後どうなったのか、小説を書く人なら、ストーリーは軽く100種類くらいはすぐ出るだろう。もし、懸賞金を積んで書いてもらったとしたら(この世的に)大化けする話が何%生まれるか知りたい。そういう金を使いかたをする放蕩息子がいたら、時代に影響を与えるだろう。