デジタルデバイドという言葉は、最近あまり目にしなくなったが、最近デジタル格差の広がりを感じるシーンに出くわすことが多い。
私は日本テレワーク協会でサードワークプレース研究部会の副部会長をつとめている。かなり先端を走っている人も近くにいて、一つ一つ技術的な課題を克服していけばビジネス上リモートでできないことはなくなると考えている人は本当に存在する。極端な例をあげれば、子作りはリモートではできないわけだが、人工授精技術があれば会わなくても子供はできる。人間関係を確立するには会食が具合が良いという意見には、走っている人が相手でも同意が得られるが、果たしていつまで続くかはわからないと思う。
一方で、相当知的水準が高いと感じられる人でも、デジタル技術を理解しようとしない人はかなりたくさんいる。ひょっとすると、5割を超えるかも知れない。ちょっと考えてみると不思議ではない。知的水準が高いと思っている人は、自分が瞬時に理解できないようなことは9割の人が理解できないと思う傾向があるからだ。私も高慢ちきなので、そういう傾向は顕著にある。ただ、発症のしかたは人によってかなり違う。
IT関係の仕事についていても、メールの仕組みも知らない人はいるし、経営力がかなり高いと思う人でも一つのメールアドレスを複数人で共有していて疑問を感じない人もいる。
一つのキーワードはアイデンティティだと思う。
印鑑を金庫にしまう人は、印鑑を盗まれてしまうとそれを使ってどんな契約をしてしまうかを少なくとも概念的に知っている。借金できることも知っていて、実印が押印されていれば自分がやったことと見なされることを理解しているのである。実印は、その人を代表するアイデンティティなのだ。メールアドレスもFacebookのIDもアイデンティティなのだが、デジタルの世界になるとなかなかピンとこない。Facebookの乗っ取りにあって初めてやばさに気がついたりする。
新しいこと、まだ知っていないことを学ぶには時間がかかる。学校のように集中的にテーマを絞って短期間で修得する道もあるが、多くはちょっとずつの蓄積で身につけていくものだ。人付き合いのノウハウとか、走り方だったり、調べ方のノウハウだったりする。改めて思うのは、修得に王道なしということだ。助けてくれる人が多ければ、負荷は小さくなるが、修得は体得だから定着までの時間はゼロにはならない。王道はないのである。そして、近道を通ろうと思うと、少なからぬ確率で罠に落ちる。
自分が理解できないような技術はやって来ることはないと思ってはいけない。