10年後の社会

10年後、私は69歳。まだ元気に活動できる状態である可能性は高いと思っているが、現在よりは身体能力は落ちているだろう。

れいわ新選組の船後靖彦氏の国会参加は私にとって一つの希望である。私にとっては、あらためてユニバーサルデザインに注目が集まると思うことが良い知らせだ。Wikipediaで検索すると以下の7条件が出てくる。

  1. どんな人でも公平に使えること。(公平な利用)
    Equitable use
  2. 使う上での柔軟性があること。(利用における柔軟性)
    Flexibility in use
  3. 使い方が簡単で自明であること。(単純で直感的な利用)
    Simple and intuitive
  4. 必要な情報がすぐに分かること。(認知できる情報)
    Perceptible information
  5. うっかりミスを許容できること。(失敗に対する寛大さ)
    Tolerance for error
  6. 身体への過度な負担を必要としないこと。(少ない身体的な努力)
    Low physical effort
  7. アクセスや利用のための十分な大きさと空間が確保されていること。(接近や利用のためのサイズと空間)
    Size and space for approach and use

2017年の1月に痛風を発症して、傷みで信号が変わる前に横断歩道を渡り切れない事態に遭遇した。たった数日だったが不利を強烈に感じた。一方で元気な時の自分は、歩みが遅い人が前を歩いているとイライラしてしまう。ユニバーサルデザインに従って、安全に脅威なく追い抜けるような十分な空間があれば問題にはならなくなる。健常者の生活も向上する。

船後氏は、「呼吸器を装着した人間を1人で外出させるのはきっと大変。この部分も今回の選挙戦で感じた矛盾でした。でもぼくは変えたい。こんな矛盾を変えたい」と述べている。また、同じ記事で「戦後欧米の労働生産性が高いものを尊ぶ文化、金もうけがうまい人を尊敬する風潮が流入したからだと私は考えます」とも述べている。私は、労働生産性が高いものを尊ぶ文化には共感する。頑張れる人は頑張ったら良いと思っている。ただし、前提として「自由で公正な社会」を目指す姿勢が必要だと思っている。

法務省の憲法の意義のページによれば、『「自由で公正な社会」とは、多様な生き方を求める人々が、お互いの生き方や考え方を尊重しながら、共に協力して生きていくことができる社会をいいます。そこでは、社会全体の幸福の実現が目指され、一人ひとりの人間が、自分の権利を主張することができるとともに、他人の権利も尊重しなければなりません。また、「自由で公正な社会」は、誰かに任せておけば自然にできあがるものではなく、一人ひとりが社会の運営に参加し、常に努力し続けることで実現・維持できるものです。したがって、各人は、自由で公正な社会の担い手として、公共的なことがらに参加する責任感を身に付ける必要があります。』とある。「共に協力して生きていくことができる社会」は目指すべき未来として素晴らしいと思う。ユニバーサルデザインはそのインフラとなる。

10年後に日本はどんな国になっているのだろうか?

「共に協力して生きていくことができる社会」という軸で今より良くなっている事を願っている。

一方で、日本は国が借金を続けなければ年金を給付することもできない状況にある。今の現実は、容易には社会保障レベルを向上させることはできない。何かを捨てなければ「共に協力して生きていくことができる社会」に近付かない。

常識的には、金持ちはもっと税金を払えという話だと思うが、政治に金がかかるから、政治家は金持ちと友達になりたい。行政も頼りにするのは影響力(支配力)の強い大企業となる。当然、強い者の意向が反映されやすくなる。ある意味、末期症状を呈している。

「共に協力して生きていくことができる社会」は、金の力に愛の力が勝たないと実現しない。老化は生き続けていれば100%やって来る。船後氏が一人の人として尊重されるような『「いのち」の尊厳』が守られる社会を目指すことは全ての国民の未来を考えることと同じだ。我慢には限度があるから、金をユニバーサルデザインに使って壁を下げる、少ない我慢で済むようにするのが合理的だと思っている。