アメリカの中絶問題に感じる民主主義の限界

アメリカではキリスト教保守派(むしろ原理主義)が猛威をふるっており、ハートビート法といわれる中絶禁止法が複数州で成立した。

心臓が鼓動を打ったら、それ以降は中絶は殺人という考え方で、堕胎術を行った医師は99年の刑に問われる可能性がある。レイプされて妊娠しても妊娠した女性に選択肢を認めないわけだから、悲惨な思いをする事になる人もいるだろう。

Pro-Life、Pro-Choiceというキーワードにすると、生命優先主義、親の選択権優先主義という単純化がなされる。原理主義的には中絶は殺人で、さらには避妊すら許さないという考えに立つ人もいる。Pro-Choiceの人の中にもキリスト教の信者は少なからずいて、宗教に関わらず殺人はいけないことだとほぼ全員が考えていると言って良いだろう。ハートビートから生きた人間と考えようよと言われたら、異議は表明しにくい。

一方で、望まない妊娠をした人にとっては、中絶の違法化は自分の人生の選択肢を奪う。結局、間接的にその人の命を奪うことになるかもしれない。

原理主義は、意見を集約しやすいのだ。その上、内側と外側を区別して、外側にいる人を人間として見ることすら難しくさせる。宗教の持つ悪魔性だ。本当は内側に留まれるのは単に運が良いだけだし、そもそも内側という概念そのものが幻想だろう。

立法府を代議士制で選んだ時に原理主義の毒が回ると悲惨である。民の投票行為で民の自由を奪うのだ。人治に堕ちれば科学的な判断も行われなくなる。民主主義は民のヒステリーに弱いのだ。

キリストは律法は廃れることは無いと述べたとされている。つまり、法は悪法でも有効だということだ。一方で律法学者を執拗に攻撃している。法の精神を見ずに形だけで人を裁いてはいけないと述べているのだ。歴史は民が結局ヒステリックに権力側についてキリストを十字架にかけてしまった。絶対やってはいけないことをやってしまったのだ。そして、キリストが復活し絶対やってはいけないことをしてしまった民を許し、愛に生きよと述べたという建前になっている。つまり、原理主義になっちゃだめだと言ったのだと私は理解している。

多数決で決めるというメカニズムには、大きなリスクがあることを意識する必要がある。

評議員制度はその副作用を軽減できる余地を残すもので、うまく運用できれば律法が人を殺してしまうのを止められる場合もある。100%の善人も100%の悪人もいない。中絶は殺人で罪として良いだろう。しかし、安易に行為者を罰してはいけない罪だと思う。

アメリカの民主党は原理主義あるいはバノン的なものに手を焼いている。まさに、民主主義の脆弱性に対峙していると言ってよいだろう。ナショナリズムも形を変えた原理主義だ。これも発明された思想で、集団ヒステリーを誘発し、同時多発的に発症している。早く新しい道を探さないと多くの血が流れることになるだろう。純粋なものは美しくかつ危険なのかもしれない。