金井美彦様
頂戴した文章を論理的に分割すると、
1. 総会決議は教会の総意ではない ←みなすということはそのものではないという意味
2. 牧師及び役員会の意思が総会決議に優先する ←牧師及び役員会は総会決議に拘束されない超越的な存在である(牧師の意思が教会の意思)
3. 牧師あるいは役員会が支障がないと考える場合は総会決議を守る ←牧師(及び役員会)が教会の意思決定者であって教会員は非支配者である
という事になりませんか?
その形に整理し直すと萩原理解は
1. 総会決議は教会の総意である
2. 教会員(牧師や役員会を含む)の信仰に基づく判断は総会決議に拘束されない ←律法主義に与しないが行動は個人の責任
3. 牧師及び役員会は教会員(同上)の行動が総会決議に反している場合でも信仰に基づく判断を尊重する ←律法は滅びないが愛を優先する(罪と罰は非連動)
となります。
牧師が総意を覆せるというのは人による多数意見の弾圧の正当化、つまり人間間に序列を付けて牧師を上に置くという考え方と言えるでしょう。根本的にキリストの教えに反するのではないでしょうか?
つきつめると、教会は牧師あるいは役員会のものか教会員のものかという問いに帰着します(一義的には神のものでも価値判断は誰かがしなければいけません)。
教会は教会員の意思に基づいて運営するのか、牧師の意思に基づいて運営するのかという問でもあり、金井美彦様の主張は牧師は選ばれしものだから、牧師の意思で教会は自由に運営して良いという主張となると思います。一方、萩原の主張は牧師は特別な役割を負っているが、一人の人間であり神の前に序列はないということになります。
同時に役員会は牧師を支える機関(あるいは牧師の諮問機関)か、教会=教会員を支える機関かという問でもあります。私は後者の立場です。
覚書が本質的だとは思っておりませんが、作ることがためらわれるということは、公言することがためらわれるということだと思います。
金井美彦様はいろいろ言葉を変えていますが、一貫して「総会決議は教会の総意ではない」と主張されています。これを公言するのははばかられるということではないでしょうか?
私は、明快に言い切れないのは何かがおかしいと考えるべきだと思います。
現住陪餐会員に戻すか否かの最終的な権限は役員会議長にあり、教会に残るか去るかの自由意志は個人にあります。私は、信仰を貫きたいと思っていますし、教会につながっていることが推奨されていると理解しているので、家族とともに教会につながり続ける道を探しています。それが、「前向き」の意味です。おかしいと思うことはおかしいと言いますが、それが互いの信仰に基づく帰結であれば、諦めなければ必ず一致の道が見つかるはずだと信じています。それは、私の言っていることに合わせろということではありません。違いを明らかにした上で、次はどうそれを乗り越えればよいかを考えればよいのではないでしょうか。
上記の理解差異が合意できたとすると、その先には「総会決議は教会の総意ではない」の合理性を私が理解するという道が選択の一つとなります。それが理解できないのであれば、やがて分かるものとしてその時を待つという道もあるでしょう。金井美彦様に私の考えの誤りを正していただければそれで一件落着となるかも知れません。
2020年6月7日に金井美彦様は決断され、総会決議と異なる行動をされました。紆余曲折を経て、現時点では総会決議とは違う行動だったが、それは教会の総意ではないので罪はないと主張されていると理解しています。
私は、ずっと筋の通った説明を期待しています。時間が経過すれば、やがて私がわかっていなかったと思えるような日が来るのでしょうか?
私は、これまでの議論でどこにも隠さなければいけないような文は書いていません。覚書にしなければならないとは考えていませんが、私は覚書にして誰に読んでもらっても何も困りません。将来考え方は変わるかも知れませんが、その日付の時点での私の真実ですから。
萩原高行