新生活300週目 - 「恐るべき者〜イエスの仲間であると言い表す」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第12主日 (2026/6/21 マタイ10章26-33節) 」。3年前の記事がある。biblehubでは、ルカ伝12章、8章、マルコ伝4章を並行個所としている。

福音朗読 マタイ10・26-33

 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」


3年前の記事では、26節に対して「日本の言葉で言えば、お天道様はお見通しという感じだろうか」と書いている。情報社会になって、嘘が良くバレるようになっているが、一方で権力者の開き直りは今なお深刻である。日本ではかつてロッキード事件で小佐野賢治が「記憶にございません」という回答を行ってから、政治家が連発するようになり、さらに安倍、高市のように激しく逃げ回るのが常態になっている。イエスの時代はどうだったのだろうか。悪事がバレても権力を振りかざすものはいただろうから、マタイ伝のイエスはこのような発言をしたのだと思う。加えて、その権力で殺される人もいただろう。だから「魂も滅ぼす」ことはできないものを恐れるなと書きたくなる。マルコ伝ではコンテキストはかなり違っていて、信仰をもっていることはどうせバレるから、隠すより明らかに信仰告白せよと説いているように読める。もちろん信仰告白は権力者にとってはその権力を脅かす行為なので弾圧の対象になりかねない。それ故に権力者を恐れて自分が信じることを隠すのは適切ではないという意味を含めたと解釈することはできる。

儚く殺される対象である雀の話はマルコ伝には出てこない。

「記憶にございません」のロッキード事件は、権力構造を揺るがす巨大な不正行為だったのは間違いない。権力者が権力にとどまりたいという私欲もあっただろうし、甘い汁も吸っただろうが、見方を変えれば合理的な判断、あるいは本人の視点で正しいことをしただけという考え方もある。誰しも(トランプやプーチン、ネタニヤフであっても)自分、あるいは自分の近しいものだけで物事を動かすことはできない。考え方に差がある有力者との関係を考慮せずに政治的な決断をすることもできない。企業人の経営判断もそういうものだ。しかし、少し長い目で見れば、暗殺などの致命傷にならなかったとしても不適切な判断は権力の持続性を損なう。死後に大きく評価が変わることも少なくない。

誰一人完璧な人間などいない。

イエスは保身に走る権力者に厳しかったが、糾弾した人々を見捨ているわけではない。忍耐強く罪を許せと説いている。不適切な行為や高慢は批判するが、短期的な利益(保身)に溺れず、本質的に大事なことに注力せよと説くのだ。現実には、そういった愛のメッセージは権力者にはほとんど届かない。その権力者の行為で犠牲者や死者も出てしまう。残念なことだ。

でも、絶望してはいけない。長期で見れば、保身に走る権力者に持続性はない。やがて破綻して消えていく。それでもなお、不適切な行為を行った権力者を人として裁くべきではない。不適切な行為はできないようにする必要はあるが、それと人を裁くということは別である。

福音のヒント(3)では28節の「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」に「神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになること」いう解釈を与えている。その解釈は自然だと思うし、私も同じように思う。嘘つき権力者も「魂に忠実に生きる」人かも知れないが、愛の向かう範囲の広さ、あるいは狭さを自らに問うことが重要になると思う。「まず、神の義を求めよ」が基本となる。

マタイ伝は、救いの範囲をユダヤ人に狭めた解釈になっているように読めるが、異邦人はその救いの範囲をキリスト教徒に置き換えて読む。それは読み手にとって心地よい解釈となるが、それは隔ての中垣を作ることにほかならない。そういう読み方があることも認めた上で、あるいは私のようにそういう読み方に導かれて信仰告白に至った経験を認めた上で、そこにとどまらず不断に神の義を求めることが求められているのだと思う。客観的に見れば、ビッグネームであっても一人の人間に過ぎず、長期で見ればほとんど世の中を変える影響を与えることはできない。しかし、私は誰の目にも見えないようなものであっても、真摯に生きる人は、あるいは真摯に生きられなかった人も、必ず世の将来に影響を与えていると考えている。どうせなら、愛の教えに従いたいと思うのである。

※画像はWikimediaの死海スズメ