新生活295週目 - 「弟子たちを派遣する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2026/5/17 マタイ28章16-20節)」。3年前の記事がある。

福音朗読 マタイ28・16-20

 16〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


福音のヒント(2)で「原文ではっきりと命令法で書かれているのは「弟子にしなさい」という言葉だけ」(19節)とある。BSBではTherefore go and make disciplesd of all nationsの一部で、原文のμαθητεύσατε (mathēteusate)をmake disciples ofと訳している。新共同訳では「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と対応する。この言葉はマタイ伝で3回、使徒行伝で1回でてくるやや珍しい言葉である。私の感覚では、弟子というより信徒という言葉のほうがしっくりくる。この節でもう一つ気になるのが、all nationsと「すべての民」(ἔθνη (ethnē))という訳だ。こちらは163回出現する(複数形は53回、マタイ伝で4回)。nationsは憲法前文では諸国民と対応する言葉で、それに準ずるとすると「諸国民を信徒とせよ」と命じたと訳すほうがはっきり意味が通る。

ただ、この命令はマルコ伝では追記部分なので、教会の加筆の可能性は否定できない。

ちなみに、明治維新後の日本の政治家にキリスト教は多大の影響を与えていることもあり、戦後制定された憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」という主張はキリスト教的な価値観が織り込まれている考えることもできるだろう。これをお花畑的と批判するナショナリストがいるのも納得できる。しかし、戦争などで絶望を味わうと、排他的ナショナリズムより平和共存を目指すべき姿として受け入れる傾向が高まるのも歴史の事実だろう。

同じく憲法前文には「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という言葉が記されている。これは私の考えるキリスト教倫理の中心規範と一致している。美しいが現実は厳しい。身近なところでは、男女の分業の不公平がある。自分が子どもの頃に感じていた常識が女性の隷従を強いるものだったことに気がついた時は衝撃的だった。しかし、気がついただけでは事態は変わらない。システムを変えるには実際には長い時間がかかる。専制はシステム変更の期間短縮に効果的に働くことがあるから英雄待望論は廃れない。しかし、専制は一時期はうまくいくように見えても長期持続性はない。専制は力を必要とし、力を手に入れると別の隷従の構造を作っていく。組織は頭から腐り、腐らせるのは英雄に依存する民の声だ。

旧約聖書は律法による統治を規範とする構成になっている。王よりシステムが優位に立つように設計されているが、法システム、法執行システムには完成形など存在しない。環境は日々変化するし、新たな発見や技術開発で常識だと考えられてきたことも書き換わる。イエスは、見捨てられて良い人など存在しないと説いた。もし、社会システムに圧迫されている人がいたならば、その圧迫が解消される方向に動くのが本来の律法の精神だと述べているのだと思う。

己の中にある偏狭との戦いはさらに難しい。見えていないことに気がつくことはできない。疑いを感じない常識の偏りに気がつくこともできない。圧迫にさらされている人には見えている偏りに気がつくことができないのだ。

律法優先の社会は情よりルールが優先されることになる。運用次第で愛は機能しなくなる。イエスがパリサイ派や律法学者を批判したポイントである。律法システムそのものを否定したわけではない。キリスト教の教会が広がっていくにつれて、独自のシステムが構築されていき、国家のシステムに影響を与えるようになった。それが「諸国民を信徒とせよ」という命令に従った結果だろう。一方、大きな組織になっていくにつれて偏狭の罠に落ちていく。組織の中心部と辺境で見えるものの差異が大きくなるからだ。

現代的な解釈で諸国民という言葉は、多くの国に属する民にという意味になるが、ネーション(Wikipedia)は「ネイション(英: nation)とは、ある種の共通の帰属意識にもとづく人びとの集合体(共同体)を指す語であり、文脈により「国民」「民族」などと訳される。」とある通り、帰属意識にもとづくものだから、そこに注目すると例えば自分が男性・女性という区分での分類に適さないと考える人びとも一種のネーションを構成することになる。「諸国民を信徒とせよ」を深読みすると、そういう人たちがもし圧迫を感じているのであれば、その人達を排除するのではなく包摂するような社会を構築せよと読むことができる。

一方で法の及ぶ範囲は、国家(Wikipedia)で構造的に排他的である。もちろんネーションも帰属意識をもっている集団の価値観は異なるから、ネーション間の対立関係は避けられない。それでも、ネーションは個々人にとっては自らの意思に基づくものだからその価値は大きい。自らの居場所が守られるためには、相応の代償を払う必要が生じる。圧迫と偏狭と感じるか、相応な社会的責任と感じるかという単純なものではなく程度問題で、自分が帰属意識をもてない他の集団とどう折り合いをつけていくかという話でもある。

マタイ伝の結びのところに「諸国民を信徒とせよ」という命令があり、さらに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と書かれているのは興味深い。未発見のネーションを発見し、そこにも愛が届くような社会を構成するためにイエスは働き続ける、続けているということだろう。

現実は厳しいが、排他的な扇動者に英雄を見てはいけない。逆に2000年を経ても「諸国民を信徒とせよ」を機能させるシステム構築は続いている。決して非信徒を差別することなく理想の実現に邁進することが命じられているということだ。

※画像はレンブラントのThe Ascension