新生活287週目 - 「ラザロの死〜イエスは復活と命〜イエス、涙を流す〜イエス、ラザロを生き返らせる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第5主日 (2026/3/22 ヨハネ11章1-45節)」。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ11・1-45

 1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
 45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


3年前の記事でWikipediaのLazarus of Bethany に触れている(当時と比較すると細かな修正がたくさんある)。マタイ伝26章、マルコ伝14章の「ベタニアで香油を注がれる」の話しと、ルカ伝10章の「マルタとマリア」の話などを組み合わせて編集した記事ではないかという説に触れている。共観福音書にはラザロの生き返りの記事はない。もし、この記述の通りの事があったなら、共観福音書で触れられないわけがないだろうから、恐らく事実はなかっただろう。読み返すと、3年前もそう考えていたのが思い出される。

福音のヒント(5)には「わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるかもしれません。」とあるのに今回は注目したい。ウクライナにしても、ガザにしても、イランにしても、「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と感じる人は少なくないだろう。遠い地の話、自分には関係ない話と気に留めない人もいる。ラザロの話を少し引いて考えると、人は死ぬ存在で、病人は死に近い。家族や親しい取っては耐え難い悲しみではあるが、関係性の薄い人にとっては特別な意味を持たない。しかし、マルタ、マリアはイエスがメシアでラザロを救う力があると信じていたので、死が訪れる前にイエスが来てくれなかったことに不満をいだいたのも理解できる。それまでに呼べなかった自分の無力さを嘆いたかも知れない。現代なら治療薬が高価であきらめざるを得ないことに嘆くといったことはある。持ち込み先のない嘆きは神に向かう。マルコ伝15章ではイエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだと書かれている。この人間イエスの嘆きはマルタ、マリアの嘆きと同種のものと考えて良いだろう。

この個所では、イエスはラザロを蘇生させ、マルタ、マリアの嘆きは解消された。しかし、それでもラザロはやがて死に、マルタ、マリアも死ぬ。ある意味では、風邪が治ったのと変わらない。15年前に私は早朝のオフィスで脳虚血状態になって救急車で運ばれた。死ぬかも知れないと思った。引用した10年後の記事には「その時「一度死んで生き返ったのだから、これからは本当に良いと思うことだけをやろう」と考えたことを忘れていない」と書いている。独りよがりな傾向が強いので、本当に良いと思うことが本当に良いことなのかはわからないが、良いと思うことをやるしかない。2節に「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と書かれているが、マリアは本当に良いと思うことを実行に移したということだろう。生き返ったのはラザロだが、マリアは自分の事のように考えて、ある意味ではこの事件の後は余生を生きたという感じなのではないかと思う。強烈な体験は人間を変える。戦争で生き残った人の中にも「一度死んで生き返ったのだから(必死の事態を乗り越えたのだから)、これからは本当に良いと思うことだけをやろう」思った人は少なくない。煩悩から自由になることはできないが、自分のための人生が自分のための人生でなくなる変化は起きる。

ヨハネ伝のこの記事は、生きているイエスを神のように描いているが、奇跡を起こす超人性に注目するのではなく、接した人に自分のための人生が自分のための人生でなくなる変化を多くおこした人だったという点に注目しても良いと思う。聖霊が降るという話でもあり、悔い改めができるという話でもある。信仰告白は自分のための人生が自分のための人生でなくなる変化でもある。確かに人生はその前後で変わるが、その変化は一度だけではない。死ぬほどの体験をしても、煩悩(他との比較)がなくなるわけではない。強烈な体験の後、自分がどう生きるかということが問われることになる。問われることはひとりひとり違うから、他人と比較してもしょうがない。また、一度志を立てても、容易に自分のための人生を生きる側に戻ってしまうのも現実であることを意識しておいたほうが良い。

※画像はLazarus of Bethany からのもの