新生活263週目 - 赦し、信仰、奉仕

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第27主日 (2025/10/5 ルカ17章5-10節)」。明示的な並行箇所はないが、マタイ伝17:20には「からし種一粒ほどの信仰」という表現はある。3年前の記事があり画像にからし種の草を用いている。

福音朗読 ルカ17・5-10

 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


3年前の記事で「福音のヒント(2)で弟子たちが信仰の量を問題としたという記述があり、信仰とは量の問題ではないという考えが示されている」書いていた。からし種(σίναπι (sinapi))という言葉は、マタイ伝2回、マルコ伝1回、ルカ伝2回出現し、マタイ伝13章、マルコ伝4章、ルカ伝13章はいずれも「天国はからし種のようなものである」という話で並行箇所となる。マタイ伝17章は、うまく悪霊を追い出せなかった時にイエスが信仰の量が足りなかったからだと言ったシーンで、本日の箇所の直接的な並行箇所とは言えないが、信仰の量について言及している点では関連性は強いと考えて良いだろう。

イエスは本当にそういう発言をしたのだろうか。マタイ伝17:20では、信仰が薄い(ὀλιγόπιστος (oligopistos))という単語が使われていて、この言葉はマタイ伝で5回、ルカ伝で1回用いられている。ルカ伝12:28は「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」である。どうもこの箇所は、マタイの教会的な解釈をルカが拾ったものなのではないかと思われる。

信仰を増やすことが、力を生み出すという考え方には違和感がある。教会指導者にとっては好都合だ。現代のアメリカ福音派に通じる力に頼る考え方は平和を産まず、分断の結果犠牲者を生み出してしまう。

「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」という表現も同じように違和感がある。

一方で、社会規範として清く正しく生きて、誠実に努力すれば結果はでる、そして結果が出た場合でも謙虚でいなさいという教えは好ましく感じられる。そういう考え方を普及させることは悪くないだろう。ただ、従順なだけではどう考えても足りない。神の命令と教会の命令は同一視できない。同時に、十分な学びなくして良いと思うことを進めても、時として大きな誤りを犯す。学びが、本物ではないものへの盲信を生む可能性もあるし、検証が困難なことばかりというのが現実でもある。

小さなことも大事にして生きなさいと説かれたと解釈しておけばよいのだろう。

※画像はJan Luyken: Parable of the Mustard Seedから引用したもの