新生活106週目 - 赦し、信仰、奉仕

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第27主日 (2022/10/2 ルカ17章5-10節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。

福音朗読 ルカ17・5-10

 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

福音のヒント(2)で弟子たちが信仰の量を問題としたという記述があり、信仰とは量の問題ではないという考えが示されている。その記述を読んで、自分が信仰を量で測ろうとしていることに気が付かされた。現実的には、聖書の教えに100%従うのは無理だから、0と100の間のどこかにあると考えてしまう。自分がかなり駄目だと思っても、ちょっとはちゃんとしているのではないかと思いたくなる。どうやれば、神に認めてもらえるような自分になれるだろうかと考える。当然福音のヒントにあるように「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」が問われることになる。やはり、どれくらい信頼を置いているかが気になってしまう。「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』」はありえないことだから、それができたとしたら、常識はずれのスーパーパワーが与えられていることになり、それは神に認められていることの証明だと感じるだろう。では、スーパーパワーが欲しくて信じるのかという話になるかと言えば、ちょっと考えればそれは支配者を目指す道でそういう信仰者が増えれば覇権を目指す戦いに至るだろう。

「わたしどもの信仰を増してください」とは何を意味しているのだろうか。

私達は、自分が本当に何を望んでいるのかわからずに願ってしまうことがある。願った方向に進んだ結果予想外に不快な経験をすることもある。こうやれば修理できると思って何かを修復不能な状態にしてしまった経験は誰にでもあるだろう。「わたしどもの信仰を増してください」という願いは、自分が善いことをする力が足りないからどうすればもっと善いことができるようになるのか知りたいという意味と取れる。実際にはショートカットはない。だから結論から言えば、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」が正解となる。

人は、優位な立場に立ちたいという思いから自由になることはできない。どうやって競争を勝ち抜いて生き残るか、支配者になるかが成功への道となる。しかし、その成功の道が他の人を不幸にしたり、いつの間にかとんでもない驚異にさらされることになるのはそれほど珍しいことではない。権力者はしばしば失墜するし、強い権力者を支持している内に戦争に送り出されることになったりする。

イエスの教えは、ほぼ真逆で、人々に仕えるもの、僕となりなさいと繰り返し言っている。神が自分に命じたことは、自分に任されたことだから、任された力を遺憾なく発揮することは問題ない。ただ、その力を自分の力と勘違いしてはいけないのだ。自分に任されたことに確実に貢献しつつ、慢心の罠に落ちないように良く見て、良く聞いて、良く考えるしか無いのだろう。一人ひとりに与えられるものは違う。その求めに応じることが幸せになる道なのだろう。

もし、この箇所の会話が本当にあったとして、自分が使徒だったら答えになんだかはぐらかされた気持ちになっただろう。しかし、答えが提示されているとも読める。その後、一人になった時に自分の質問の意味を考え直して、ひらめいた人もいるかも知れない。ただ、仮にわかった、そういういことかと思う瞬間があったとしても、それだけでは具体的な行動にはつながらない。まあ、自分にやれることをそれぞれがコツコツとやっていくしか無いのだろう。

※画像はFlickerから引用させていただいたからし種の草(CC BY 2.0)、カリフォルニアのものなのでイエスが引用したものとは違うかも知れないが、Brassica nigraは2.4メートルまで伸びる一年生植物。