今日聞いた説教が印象深かったのでメモ
聖書箇所はマタイ伝11章1〜6(この箇所には以前書いた記事がある)。洗礼者ヨハネのメッセージ「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」は、ヨハネがイメージしたメシアとイエスに不一致があることで疑いを持ったからだという解釈にハッとさせられた。言われてみれば、そのとおりだろうと思う。
メシアは世直しを行い、裁きをもたらす人とヨハネは考えていたと思う。清廉で自制的な人で恐らく律法にも忠実だっただろう。イエスには破天荒なところがある。しかし、ヨハネがイエスに洗礼を授けた時に、恐らくこの人がメシアだと気がついていたのではないかと思う。預言者の一人で、露払いの役を命じられたと思われるからだ。それでも、彼が想像したメシア像とイエスには明らかに差がある。
今日の説教では、メシアが来れば不実は正されるはずだから、ヨハネを囚人としたヘロデは廃され、ヨハネは開放されるのが自然だと思っただろうとの話だった。ヨハネはそう考えた可能性は十分にある。また、説教ではそれぞれが自分が考える神やイエスのあるだろう姿に基づいて、それぞれの価値観でなぜこんな不当なことが許されているのかと嘆くのとある意味同じだとも解釈した。それももっともだと思う。善さの価値観は深く追求すれば差異が明らかになり一致することはない。愛という大きい言葉に集約させれば一致できるとしても、完全一致などありはしない。
イエスは起きている事実を評価せよと言い、自分の正義にとらわれないようにせよ(わたしにつまずかない人は幸いである)と言ったという箇所である。心すべきだと思った。