新生活116週目 - 「洗礼者ヨハネとイエス」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第3主日 (2022/12/11 マタイ11章2-11節)」。ルカ伝7章に並行箇所がある。大きな差異は感じられない。新共同訳の見出しの範囲は、2−19節までで、ルカ伝では7:18-35。節数だと同じ18節となる。

福音朗読 マタイ11・2-11

2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
 10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
   あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

福音のヒント(1)にあるように「ヨハネは実際のイエスの活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(=キリスト)のイメージと違うことに戸惑った」という考え方には納得感がある。イエスがヨハネ教団に一定期間属していたのは、事実だろうし、まだ彼の時が満ちていなかったとしてもヨハネはイエスを「来たるべき方」と考えたのも恐らく事実だろう。自分が神の子でなければ、自分が神の子でないことはわかる。同時にヨハネは前座の使命を知っていて、神が来ることを知っていて待っていたように見える。そして、イエスが来た。しかし、イエスは裁く者ではなかった。

10節はイザヤ書40章3節を指すと思われる。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。常識的にはバビロン捕囚からの帰還を指す場所だが、本当の帰還はまだ実現していないと考えていた人は多かっただろうし、ヨハネは、その時が近づいたという神の声を聞いていたのだろう。10節には「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される」とあるので、彼がイメージした主なる神は強い神だ。ところが、イエスのやったことは、目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩くようになり、病が癒やされといった救う働きであった。多くの人が社会に参加する方向の変化を生み、外敵に対する反抗の要素は小さい。むしろ、外敵に対応する役割を担う人が、弱いものから奪うことを糾弾する方向に動いている。少なくない人が期待していたスーパーマンが現れて敵に勝って自分たちを自由に、豊かにしてくれる神とは違う。イエスは実態を伝え、「わたしにつまずかない人は幸いである」と結んでいる。

福音のヒント(3)で貧しい人の話が出ているが、良く考えてみると「苦しみの中にない人」は恐らく存在しない。それでも、自由度の小さい人を置いてきぼりにしないというメッセージがイエスから感じられる。そこがポイント、あるいは愛の本質だろう。現実には、全てに取り組んでいくことはできないが、共に取り組むことで進むことはある。キリスト教会だけがやっていることでもないし、全てのキリスト教会が取り組めているとも言えないが、イエスの生誕を記念して原点に戻ろうとするのがクリスマスの意義だと思う。不義に負けてしまった教会は、不義を悔い改め道を真っ直ぐにして歩み始める日としたら良いと思う。時間が経過しようと、やってしまったことは消えることはないが、事実に基づいてそこからもう一度歩み始めることができるのなら、その方が良い。

※画像は洗礼者ヨハネによる人々への洗礼の絵でWikimeidaから引用したもの。ヨハネは荒れ野で伝道したが、イエスは自らが動き回って伝道した。貧しい人は自らが求めて荒野に行くこともできないだろうが、そばに来てくれるなら会えるかもしれない。戦火にある人、虐げられている人の元に向かい、役に立とうとしている人のことを意識して祈りたい。苦しみの中にいる人はもちろんだが、そういう人のために力を発している人に幸いがありますように。