今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第5主日 (2025/4/6 ヨハネ8章1-11節)」。3年前の記事がある。共観福音書に並行箇所はない。
福音朗読 ヨハネ8・1-11
1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
福音のヒントには以下のようにある。
新共同訳聖書は、ヨハネ福音書のこの箇所をカッコの中に入れています。古代の重要ないくつかの写本の間に大きな食い違いがあって、後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所だと考えられるからです。しかし、この物語のイエスは、イエス以外の誰にもできないような大胆なゆるしの宣言をしていますから、この物語が実際に起こった出来事に基づいていることは疑いようがありません。
私はもしこの物語(Jesus and the woman taken in adultery)が実際に起った出来事に基づいているとするなら、共観福音書で取り上げられないはずはないと思う。だから、「後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所」という主張が正しいのではないかと考える。ヨハネ伝は宣教のためのイエス伝という側面がありかなりイエスが理想化された形で書かれている。この話もそういった編集の結果なのではないかと思う。そして、その意図は達成されていると考えて良いだろう。イエスなら、こういう行動を取りそうだし、信徒の行動規範として広く受け入れられることになった。同時に、伝統的なユダヤ教指導者への批判となっている。
3年前の記事にはプーチンと戦争の話が出てくる。それから3年の間に2023年パレスチナ・イスラエル戦争が起きている。平和共存の未来は遠ざかっているように感じる。
旧約聖書の歴史を改めて懐疑的に読み直すと、ユダヤ教徒がカナンの地に入植、侵略し勢力を拡大していった。指導者層は混血を嫌ってパレスチナ人との共生は志向していなかったように読める。恐らく、ダビデ、ソロモンは例外で、かなり融和的だったように思われるが、2代限りで権力の独占は維持できなかった。申命記史観で聖書を編纂し、排他性を高め、力に頼るようになるが人口は多くなくやがて制圧されてしまい、国としてのイスラエル、ユダは失われる。恐らく、モーセ5書の歴史記述は現実とは相当異なるものだっただろう。現在のイスラエル右派は、ある意味、制圧されてしまったユダヤ教民族主義の再来と言えなくもない。現代でもキリスト教徒20億人強とユダヤ教徒1400万人と100倍以上の差がある。イスラム教徒は18億人程度、仏教は5億人程度と考えられている。
今日の箇所に象徴されるように、キリスト教は寛容を重視する形で人々に受け入れられた。マタイ伝3:9「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」にあるように血統重視ではない(マルコ伝には平行箇所はない)。
日本の国家神道はユダヤ教と通底するものがあり、民族主義で王権神授説に基づき捏造された正史に基づいて選民思想とした。今でも余韻は残っているが、そんな選民思想に持続性はない。
キリスト教にも割礼の奨励など原理主義的な規範と正当性の確立をしようとする動きは何度も行われている。現代の米国福音派は保守思想で寛容性を失う集団になってしまっていて、トランプの選出を招いてしまった。選民意識と外部からの脅威の存在に煽られて、真実の追求ができなくなってしまっているように見える。
本日の箇所が仮に作られた物語であったとしても、重要な行動規範として学ぶのが良い。一方、物語がいかに美しくても事実は事実として追求するのが良い。解釈は解釈として積み上げられて良いし、様々な事実の判明とともに改定されて良い。
※画像はブリューゲルの絵画Pieter Brueghel the Elder: Christ and the Woman Taken in Adultery。