新生活80週目 - 「わたしもあなたを罪に定めない」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第5主日 (2022/4/3 ヨハネ8章1-11節)」。

福音のヒントの最初の部分に「新共同訳聖書は、ヨハネ福音書のこの箇所をカッコの中に入れています」とある。7章53節からだ。この箇所にも平行箇所はない。この箇所も大変印象に残る箇所だ。

福音朗読 ヨハネ8・1-11

 1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

福音のヒント(1)には「初代教会では、姦通は特別に大きな罪と考えられていました。ですから、姦通の罪を犯した女性をゆるしたイエスの物語は、スキャンダルになったのではないでしょうか」とある。姦通を不道徳とするこの考え方は、現代のプロテスタント教会でも不変だと思う。もちろん、現代では男女といった性は関係ない。

この話が史実であれば、イエスは彼女の命を救った。たった今にマップすれば、イエスがプーチンの命を救うシーンと捉えても良いかもしれない。

私は、福音のヒント(4)の「人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました」に注目したい。誰かが、石を投げれば一気に流血のシーンとなっただろう。律法は石で打ち殺せとあるから石を投げる側に正当性がある。殺人罪に問われることはない。律法を絶対化すれば、石で打ち殺さないことが律法違反となる。去っていった人々は不作為の律法違反者とも言える。

現代だと、合法的な殺人の代表例は戦争での戦闘だ。侵略側であれ防衛側であれ殺人は殺人だ。だから、戦後に少なからぬ人がその殺人の重さに耐えかねて自ら命を断つ。心を病んでしまう。あれはしょうがなかったと考えても人を殺してしまった事実は消えることはない。一方で、戦争で戦わなければ相手のやりたい放題になってしまうから、戦わないという選択は相手兵士による殺人の許容ということになる。実際に戦争が起きてしまって戦闘、侵略で被害者が出れば、事後に責任の所在が問われることになる。プーチンが戦争犯罪者となって責任を負うことになったとしても、兵士が行った事実が消えることはない。失われた命も戻らない。

法律は、それが意図的に邪悪に作られていなくても限界がある。やってしまった事を裁いても、その事は既に起きてしまった後だから言わば後の祭りである。

イエスは最後に「もう罪を犯してはならない」と言ったと書かれている。つまり、罪はあったということだ。しかし、その前に「あなたを罪に定めない」と言っている。英語の聖書だと訳によらずほとんどcondemnという言葉が使われている。punishではない。「あなたを罰しない」とは言っていない。法律には罪の裁定と、罪と罰との結合の側面がある。律法が有効だとすると、罪に定めれば自動的に罰が伴うことになる。律法が生きているとすれば、罪に定めれば罰しなければいけないことになる。

律法の中心を十戒におくとすると、出エジプト記の20章20節でモーセは「あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」と解説している。つまり、律法の目的あるいは神の顕現の目的は「罪を犯させないようにするため」となる。繰り返しになるが、罪を犯させないことがその意図だ。その意図を達成するために律法はある。

逆に言えば、罪を犯させないことができるのであれば、律法を適用しなくても律法の目的は達成できる。さらに付け加えれば、律法を厳格に適用しても律法の目的が達成できるとは限らない。

果たして、彼女は再び罪を犯すことはなかったのだろうか?

現実的に考えれば、100回同じシーンがあったとしたら、その100人の中に再び罪を犯す人が出る可能性は高い。人間は弱い。罪を犯した人を殺してしまえば、その人が再び罪を犯すことはできなくなる。だから律法の目的は達成できることになるが、それで良いのか?

新生活79週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」で「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」という話に触れた。罪を犯した、あるいは犯しつつある人達はイエスに期待を置いていた。律法の下にあって厳格な適用を行えば、彼らは社会活動に参加できない。生きていけないという現実もあるが、同朋と共に歩みたいという思いもあるだろう。社会の一員として認められないことは辛いことだ。過去の罪に基づいて排除してしまえば、その分集団は未来を失うことになる。

ましてや、冤罪もある。

律法は「罪を犯させないようにするため」であっても、律法は人を社会から排除してしまう側面を持つ。「あなたを罪に定めない」は、私はあなたを排除しないと言っていることに等しい。殺さないという意味だけではなく、より良い未来を作るために力を尽くすように勧めているのだろう。神は生きているものの神であることを示している。

命のやり取りに直面してしまえば手遅れである。生きているものの神である神を愛すのであれば、平時の行いを軽んじてはいけない。誰もが罪を犯すこと無く生きていける社会の確立に向けてそれぞれができることをやるのが良い。過去に犯した罪、事実は消えることはないが、イエスは前を向いて歩くことを勧めている。事実をごまかせば、歪みは拡大していく。扇動を含め、力で事実をねじ伏せて権力を確立する人に追随してはいけない。まず事実を良く見て、自分で判断して進めば良いのだと思う。平時の改善活動は地味だが貴重なのである。同時に、手遅れで罪を犯してしまった人の心に「もう罪を犯してはならない」という声が届くように祈る必要があると思う。イエスはプーチンに対しても「あなたを罪に定めない」と言うだろう。もちろん「もう罪を犯してはならない」と言うに違いない。失われた命は戻らない。

専制と隷従が解消されるように小さくてもできることを重ねることはできる。民主主義国家であれば、投票権は主権者にある。専制と隷従が起きない方向に法整備を改善していくのが大事だと思う。核と同じく、法律も罰則を強化することで抑止力を高めるという方向に振っても未来は拓けない。その権限の大きさに基づいて個々の人権を守りつつ、様々な事実が明らかになる環境を作っていくのが近道だろう。今の時代だからレベルアップを図れることはある。

※画像はWikimediaから引用したレンブラントの姦淫の女