我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

毎日、主の祈りを祈るが、ふと「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」に引っかかった。感覚的には、明日も行きていけるようにお守り下さい、という祈りだ。その時、主語は我らではなく自分だ。独立して、仕事がうまく行かなくて貯金が減っていった時期には、生きていけるかどうか不安に思った時期もあり、今日明日の問題ではないのに、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」という祈りが身に迫ってきたことがある。

異常気象で食料供給に難が出て、飢える人が出るという予想がある。エネルギー供給や輸入が滞れば日本でも恐ろしい事態に直面するかも知れない。まあ大丈夫だろうと考えてしまうが、世の中には恐ろしい現状に直面している人は少なからずいる。

我らという言葉をどう解釈するかも問題となる。教会で礼拝の時に祈りを合わせればこの我らは、今ここに集っている人たちを指すだろう。今ここにいない人は祈りの対象に含まれないから、他のタイミングで、オンラインで出席している人たちも、家族もといった、あえて今ここにいない人だけが対象ではないと明示することもあるが、言い訳っぽい感じは拭い得ない。偽善でも意識したほうが良いと思うが、外から見れば不遜でしか無い。

人種差別指向の政治家を応援するアメリカの福音派教会など、ある種最悪の集団と言えるだろうし、ロシア正教がウクライナ侵攻を正当化するなど論外だ。もちろん、どのような集団であれ完全ではありえないし、良い面が多く出るなら善しとしたら良いだろう。深刻に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」を祈らずにおられない人をどのような集団に属しているかに関わらずに減らしていくことを祈るのが、主の祈りの目指すところだろう。

技術開発でより遠くまで行きたいと思う人が努力するのは素晴らしいことだが、気づかない内に「我ら」が狭まってしまうと予期しない災厄を招くことがある。真摯な祈りには、それを軽減できる力があると信じている。

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