新生活303週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第15主日 (2026/7/12 マタイ13章1-23節) 」。3年前の記事がある。

福音朗読 マタイ13・1-23

 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」
 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
 18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


福音のヒント(1)で「たとえ」(παραβολαῖς)について触れられている。新約聖書で50回出てくる言葉だが、共観福音書3書とヘブライ書にしか出てこない。ヨハネ伝ではこの言葉は用いられていない。ヘブライ書11:19では、アブラハムがイサクを葬ろうとした時のことを死からの復活になぞらえて「それは死者の中から返してもらったも同然(新共同訳)」の同然の訳があてられている。「たとえ(という言葉)」を「同然(という言葉)」と置き換えるのは違和感はない。

福音のヒントにある「人がたとえ話を用いて話すのは、ふつうは話を理解しやすくするため」はそのとおりだと思う。「たとえ」は、ある事実や法則に対して解釈を加えた表現を意味する。そうすると、その対象となる事実や法則は「謎」に変わる。たとえは謎解きの入り口に過ぎず、たとえで分かった気持ちになってしまえば謎に迫ることはできない。23節の悟りは謎にたどり着いた度合いを示すと考えることができる。

私は、聖書のギリシャ語を読む能力はないから、翻訳に頼って理解するしか無い。日本語訳の聖書を「同然」と考えて読む。翻訳は「たとえ」の一形態と言えよう。聖書に書かれている事実や法則をできるだけ正確に日本語で伝えようとして作成されたものが日本語訳聖書となる。訳は訳者の解釈を含むから訳によって書かれている内容が違う。オリジナルの福音書も執筆者の解釈が入ったイエス伝だから、そこに書かれたイエスの教えは謎である。

日本語で自分のメッセージを書いて、それを英訳して、その英訳文を日本語訳すると元の日本語文に戻ることは稀だ。そこから、もとの日本語メッセージが自分の意図を正確に表現できていないと感じることもあるし、それよりしばしば自分の書いたメッセージの意図を自分が十分に理解できていなかったことに気がつかされることがある。

イエスの種蒔きの話(13:1-9)は、恐らくほぼその通りの発言があっただろう。しかし、イエスがその背景にある事実をどう捉えていたかは内面の問題だから聞き手には分からない。その内容から考えて、目の前の事実を記述しているとは思えないので、今起きていることではない何らかの事実、あるいは法則についてイエスの解釈を加えたスピーチがなされたということだ。文脈から考えて、事実というよりは法則について語ったとしか思えない。10節以降の話はマルコ伝にもあるので、弟子がその含意を問いたことは間違いない。マタイ伝13:10-17はマルコ伝では「このたとえが分からないのか。…」という記述になっていて、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とは異なる。弟子も理解していない側にいる。これはマタイ伝的な選民思想に基づく編集だろう。私たちは「このたとえが分からないのか。…」が私たちに今も語られているメッセージだと捉えるべきだと思う。わかったつもりになっているのは滅びの入口だという意味だ。

18節以降については、そのまま受け入れて良いと私は思う。最後の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」が目指すべき姿と取るのが自然だろう。豊かな人生を歩むことができると説いていると読む。一方「御言葉を聞いて悟る」ことが何を意味するのかは自明ではない。「実を結ぶ」が何を意味するかも自明ではない。自明でないから考える。それは真実の追求を意味し、謎を解こうとする試みにほかならない。「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えは鍵となるだろう。悟ることはできるだろうか。

話は変わるが、3年前の私はテレワーク協会のサードワークプレース研究部会副部会長を引退した年でもあり、MIERUNEの監査役就任に向けた準備期間でもあった。3年前の記事を見直すと、自分がそういう状況にあった故にそういう記事を書いていたのだということが感じられる。つまり、同じ自分であっても、おかれている状況によって見えるものが変わるということだ。今の自分は、今の自分の目で3年前の記事を読むことができるが、未来の(3年後の)自分が今の自分をどう見ているかを想像することはできても、それがそのとおりになる可能性は高くないだろう。

積み重ねは大事だし、意味がないとは思わないが、積み重ねを続ければより良い生に到れるわけではない。

それでも、誰もその人ができる限りの積み重ねを行うしか無い。

※画像はCarl Bloch: The Sermon On the Mount