イスラーム哲学の原像読了。1980年の本で、本を開くと当時の図書館のシステムが垣間見える。各ページも端から茶色くなっていて、時間を感じさせるが、言葉は現在のものと変わりなく、読みやすかった。
構成は第一部「イスラーム哲学の原点」、第二部「存在顕現の形而上学」からなり、存在一性論に迫っている本だ。スーフィズムが羊毛から来ていて、修験僧的な修行の末に悟りを開くというような道を示すといった解説も興味深い。洗礼者ヨハネもそういうタイプだったと思うし、山伏や高野山(空海)、アッシジのフランチェスコ、ブッダも想起させる。古今東西を問わずスーフィズム的な道を選ぶ人はそれなりの比率で発生する。同時に、言葉にすることの重要性も広く認められている。イスラム哲学はイスラム教そのものではないし、イスラム教を採用した権力者が持続的な統治を行うためには法制度が必要となり、イスラム教が意図することを言葉に落とし込まなければいけない。信徒の中にも、意図の言語化に熱心になる人は出るし、修行僧の中にもそういう人は出てくる。民衆も正しく言語化されることを望む思いは少なくない。その過程で、宗教指導者の矛盾や保身が明らかになることも多い。イエスとサンヘドリンとの関係もそういう側面があり、自分に不都合になると権力者は思想の弾圧に走る。
言語化は構造化でもあるので、本書第一部でナフス・アンマーラ、ナフス・ラウワウワーマ、ナフス・ムトマインナ、ルーフ、シッルの五層化で解説している。しかしスーフィズムは脱構造化の思想でもあり、構造化を超えた悟りを目指すから、悟った人(神秘主義的実在体験者)にとってはその五層は意味をなさなくなるのだろう。しかし、密教的な道を通って悟った人でない人にとっては、それを理解することはできないから、五層のたとえとして言語化するしか無い。
第二部ではその哲学をどう理解すればよいかという問いへの答えが示されている。例示がベースになっているので読みやすい。その最終節「XI 存在顕現の構造学」は総まとめといえるので、何度も読み直したがここは腹落ちしなかった。著者の理解の表明なのだろうが、心の底に訴えかけてくることはなかった。それをいったらおしまいだよと言えなくもないが、神秘主義的実在体験者でなければ書けないのではないかと感じたのが正直な思いである。
それでも、読んで良かったと思った一冊だ。