新生活298週目 - 「イエスは命のパン」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体 (2026/6/7 ヨハネ6章51-58節)」。3年前の記事がある。

第二朗読 一コリント10・16-17

  16〔皆さん、〕わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか17パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

福音朗読 ヨハネ6・51-58

 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕51「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。


田川建三は、福音朗読の個所ヨハネ6:51-58もオリジナルではなく加筆された個所と分析している。3年前の記事で「53節の「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」はあまりに衝撃的な言葉だ。イエスがこのような生々しい表現を使ったとはにわかには信じられない」と書いている。イエスが言ったことではなく、ヨハネ伝教会的編集者の加筆で間違いなかろう。しかしカトリックの聖書朗読ではこの個所が割り当てられている。

3年前は「58節には、永遠に生きるという記述があるが、考えてみるとよく分からない。当時、不老不死が幸せだと思えたのだろうか」とも書いている。3年歳を重ねると、肉体の衰えを感じ3年残り時間が減っている感覚はある。まだまだ、命ある内にやるべきと思うことは多いし、長生きすれば達成できる量は増えるだろうと期待はしているが、それでも不老不死を望みたいとは思わない。

この個所は迷いのある青年や、初老期の人にはヒットするような気がするが、心の隙に付け入る感じは今の私には否定しがたい。

3年前の記事はやや長いが、読み返すと今の私にも響くものがあった。

福音のヒント(4)に「わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。」とある。確かにそう読むことはできると思うが、教会的編集者の匂いも否定できない。私を含めてそれぞれの人が誠意をもって善意に基づいて意見を表明していたとしても一致するとは限らない。どちらかが正しいということではないだろう。信仰告白で「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という書き出しは象徴的だが、実際には4福音書は相互に矛盾を含んでいる。人間が書いているのだから、完全なものなどありえない。それでも、著者あるいは加筆者は自分に与えられた霊感あるいは解釈に基づいて真実と思うことを書いただろう。後日ヨハネ伝教会的編集者だけでなく、加筆修正や一部削除を行ったこともあると思うが、今日の加筆と思われる個所を含めて霊感によるものだと思う。田川のような解釈は合理的だと思うけれども、一人ひとりに降る霊が語ることは一人ひとり異なるようだ。異なっていても共に歩むことができないわけではない。不適切な行為への糾弾はあっても良いが、人を断罪してはいけないという話と通じるものがあると思う。

第二朗読は短いが、パウロは「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」と書いている。一人ひとりに降る霊が語ることは一人ひとり異なるが、一つの体と思えたほうが良いのだろう。ヨハネ伝、一コリ共パンは新約聖書で97回出てくる同じ単語(ἄρτος (artos))が使われている。荒野の誘惑で石をパンに変えよという時のパンも同じ言葉。ただ、BSBの訳では、ヨハネ伝はBread、一コリはLoafと訳し分けている。Loafは塊を指すから、その塊を分けて食べるというニュアンスがあるのだろう。

聖餐式には一コリ11:23-26が読まれる。ヨハネ伝には聖餐の記述がないが、53節は聖餐に参加しなければ救われないと書いてある(加筆されている)ように読める。正しい信仰のあり方が記載されているということだろう。一コリは原点を思い出すための聖餐という印象が強い。日本基督教団の教会は洗礼を受けていなければ聖餐に参加できないから、「正しい信仰のルール」が強制されていることになる。私は、今はそのルールは教会を維持するためのルールであって必ずしも信徒のためのルールとは思えない。聖餐式は按手を受けた牧師が行うから権威化効果を生む。正規の教師がいなければ聖餐を行うことができず、救われないという話になってしまう。聖餐式の一コリの個所ではイエスが「わたしの記念として、このように行いなさい」と言ったことが書かれている。原点は記念であるから、記念して受けることができる状態であれば、未受洗者の聖餐式への参加を排除するべきではないと考えている。ただ、ふさわしくないまま参加してしまったという事実が後日その人を苦しめることになるかも知れない。実際には、牧師が道を踏み外すことはそれなりにあるので、聖餐式を行うものがふさわしくないものであることもあり、ふさわしくないものが聖餐式を行えばその正統性は損なわれるだろう。私は、何度も砧教会で金井美彦が司式した聖餐式を拒絶した。それは、良心に基づく行動である。教会組織的には反逆行為と言われてもしょうがない。福音朗読、第二朗読を読む時、あるいは聖餐式に参加する時、礼拝最後の祝祷あるいは祝福を受ける時にしばしば何か変だと思う。まあ、ルールは合理的だと思っているが、ルールを絶対視して排斥につながるような行いはイエスの教えに反してるように感じられる。ただ、問われた時に事実をごまかしてはいけない。行った行為に基づいて裁かれることは受け入れなければいけない。それでも、できれば協調的でありたいと願う。

聖餐についても、パウロの解釈、ヨハネ伝著者あるいは加筆者の解釈は一致しない。聖書や説教に学びながら自分にとっての道を探っていくしか無い。

※画像は教皇の聖餐Cerimônia de canonização do frade brasileiro Frei Galvão celebrada pelo papa Bento XVI no Campo de Marte em São Paulo, Brasil.