今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2026/5/31 ヨハネ3章16-18節)」。3年前の記事がある。
福音朗読 ヨハネ3・16-18
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
田川建三は、ヨハネ3:11-21はオリジナルではなく加筆された個所と分析している。ギリシャ語の用語やクセからの分析だから恐らく正しい推定だろう。ヨハネ伝加筆者は異端排斥傾向が強く、この個所もその傾向が強く出ている感じがする。ただ、人間は変わる。信じない者が既に裁かれているとしても、パウロのように回心する人もいる。しかし、排他性は内部の結束を高める効果があり、異端排斥は教会経営者あるいは支配者には好都合だ。ただ、短期的には有効でも、権威主義は経済を悪化させ破綻に至る。繰り返しそういう勢力は現れる。十字軍もイスラム帝国もそうだが、多くの命が失われることになる。新約聖書、イエスはユダヤの権威主義的な勢力を批判して殺された。しかし、イエスは彼を殺したものへの恨みを表明したりはせず、復活後も愛の本質を説いた。映画Jesus Christ Superstarで思い出されるのは、熱心党のシモンがちょっとだけローマへの恨みを掻き立てればあっという間に権力が得られるだろうと進言しているシーンだ。短期的な権力奪取という観点では正しい進言だと思う。しかし、その行く手には破滅しか無い。ヨハネ伝加筆者はもちろん、破滅にひた走るこの世の扇動者を支持してはいけない。しかし、なぜか惹かれてしまうのも人間がもともともっている性質なのだろう。イエスは、その性質あるいは呪縛からの自由を提唱し、頭ではそれを理解できる人が増えた。しかし、(他人より優位な立場に立ちたいという)肉の誘惑には中々勝てない。それでも、不思議なことにイエスの教えへの原点回帰は繰り返し起こってきた。
今日の箇所は3:1から始まる「イエスとニコデモ」で、3:3でイエスが「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」といったことへの問答がオリジナルでは3:10で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」で終わったと思われる部分の後の加筆部分の一部。もし、オリジナルが本当に10節で終わっていて、22節からの「イエスと洗礼者ヨハネ」が続くとすると、「新たに生まれる」という言葉の意味が際立ってくる。3年前にも書いたが、Wikipediaのニコデモの記述は日本語版の方が簡潔ながら興味深い。イスラエルの教師であっても、権威を守ることより真実を追求したいと思った人はいたのは不思議なことではない。そういう意味では「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」は批判的な言葉と取るより、愛の言葉と取ることもできるだろう。
ちなみに、3年前の記事では、「イエスは本当に『信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。』と言うだろうか。私は、どうもしっくりこない」と書いている。田川建三を読んだ後の私は、イエスは「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」という発言はしていないとほぼ確信した。ヨハネ伝加筆者のある種の捏造だろう。
16節に「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。これも内側と外側を分ける排他的な表現だと思う。人数が少ない集団では、こういう表現はいらない。宗教は価値観の転換を促すから、その価値観が通用する集団から出るのは難しい。しかし、ある程度の人数に成長すると、序列が発生して、本物かどうかが問われるようになる。それでも原点に戻れば、おかれている立場に関わらず生きる権利があって神のもとの平等に立ち返ることになる。イエスは律法学者を排斥してはいない。神のもとの平等を想起せよと繰り返し説いたと考える方が納得感がある。その考え方を信じていたとしても、俺のほうがより正しい道を生きているという思いを持ちたいという誘惑に勝てない。集団の中で権力を得るようになると、その権力を維持することに思いが向かってしまう。ヨハネ伝加筆者集団はその罠に落ちながら、教会の拡大に貢献したのではないかと思う。そして、その教会は残っていない(ヨハネ伝の教会として歴史が続いていることはない)。歴史のフィルターを経て、正統性の罠に何度も落ちつつも、キリスト教としては存続してきている。悔い改めの信仰は、選別的な教えを超越できるということだろう。欧州を旅行すると廃教会を頻繁に見る。教会も死ぬのだ。もし、教会が(無意識でも)排他的になってしまえば内部の結束は高まるが持続性は損なわれる。だが、原点に立ち返ることができれば、かつて適切でない集団に属していた人であっても、道が閉ざされているわけではない。イエスは「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」という発言はせず、むしろ慢心している信者に「あなたはイスラエルの教師(キリスト教信者)でありながら、こんなことが分からないのか。」と今も愛をもって語り続けているのだろう。
「ちょっとだけローマへの恨み(敗北原因の他責化)を掻き立てればあっという間に権力が得られる」という声に耳を傾けてはいけない。自責を原点に排他的でないより良い道を探れとイエスは説いている。あるいは、弱者から貪るなということだ。今日の箇所は文字通りにとって、正しく生きようとしてもよいだろうし、その後がどうだったかに思いをいたして反面教師的に捉えても良いだろう。そして、どの権力機構にもニコデモやパウロは現れる。その人の生きている間に時が満ちるとは限らないが、真摯に真理を追求すれば永遠の命が得られるのだろう。
※冒頭の画像は、Wikimedia Commonsのイエスとニコデモ。画像では老賢者風に描かれているし、英語版Wikipediaでは「イエスと会話した時点では年配の男性であった可能性が高い」と書かれているが、ひょっとするとイエスよりずっと若かったのではないかと私は想像してしまうのである。