新生活296週目 - ペンテコステ「イエス、弟子たちに現れる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「聖霊降臨の主日 (2026/5/24 ヨハネ20章19-23節)」。3年前の記事がある。

第一朗読 使徒言行録2・1-11

 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

第二朗読 一コリント12・3b-7、12-13

 3b〔皆さん、〕聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 4賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。7一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
 12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

福音朗読 ヨハネ20・19-23

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


3年前は第一朗読からΠεντηκοστῆς(ペンテコステ)という言葉に触れていて、3箇所にしか現れていないと書いている。Biblehubでは、使徒行伝2:1のCross Referenceには新約聖書の個所はない。福音のヒント(1)で触れられているヨハネ伝20:22に出てくる聖霊(Πνεῦμα (Pneuma)、直接目的語)は383回出てくる頻出語。第二朗読の一コリ12:13では(一つの霊)Πνεύματι (Pneumati)(間接目的語)と、飲むものとしてΠνεῦμα (Pneuma)(直接目的語、ヨハネ伝と同じ)で出てくる。

田川建三は使徒行伝の註で、第一朗読の部分について「いかにも宗教教団成立の奇跡的聖者伝説だから、どのみち歴史的根拠のどうのというような種類のものではない」と書いている。私は、こういう奇跡は本当に起こったのではないかと考えていたが、確かに冷静に読めば怪しい話であることは間違いない。福音のヒント(3)にあるように「ペンテコステの出来事でも、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです」を素直に受け止めてきたけれど、実際に何があったか(歴史的事実)を考えると少なくとも誇張はあるだろうと思う。しかし、3年前の記事に書いているように、友人が霊的な事件を語っていたのに嘘はなかったと思うし、毎回ではないが洗礼の時の宣誓で、明らかに何かが起きていると感じることもある。やはり3年前と同様「異常なことだが、この奇跡が無かったとは言い切れないと思う」というのが今の感想だ。

田川の解釈では福音朗読の個所はヨハネ伝加筆者による個所。オリジナルのヨハネ伝にはこの個所はなく、歴史的事実性は極めて怪しいが、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」というイエスのメッセージを弟子たちは何らかの形で受け取ったのは間違いないだろう。自分で自分に言い聞かせる面もあるかも知れないが、そのメッセージを受け取ったと信じると人生は変る。

第二朗読の「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」も「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」もパウロの解釈。福音朗読の「あなたがた」がユダヤ人の縛りから完全に解き放たれているという解釈でもある。書かれた順序は一コリが先で、ヨハネ伝加筆者はその解釈を引き継いでいるのだろう。ただし、現実には「イエスは主である」は詐欺師でも扇動者でも言えるから、ヨハネ伝加筆者は異端の線引に注力した。でも善人と悪人を選別できる方法など存在しない。矛盾や対立も含んで全体として「皆一つの体となる」という解釈の方が今の私にはしっくり来る。

あらためてペンテコステ事件を見直すと、「この物音に大勢の人が集まって来た」と書かれている。信者が集まったわけではない。属性も考え方も多様な人が、奇跡を見たことになっている。意図的なイベントではなかっただろう。イエスの名で集まっているということは伝わっただろうから、これはどういうことかと考えさせる効果はあった。現代のような情報化時代ではなかったとは言え、イエスは何者かを調べた人もいただろう。遣わされた人に聞いて信じた人もいて、それが拡散していった。そう考えると、田川は「キリスト教会が本当にこの日にはじまったかどうかは別問題である」と書いているが、キリスト教会はこの事件を機に教会としての歩みを始めたといっても良いと思う。

教会はペンテコステを事件として扱ってもよいが、そこからどう変わっていったかを見つめ直すことに価値があるだろう。伝道を覚悟すると、多様な人にイエスの教えを伝えなければいけなくなる。当然、何が正しい教えか聞かれたら答えなければいけないが、実際には常に通用する正解などない。規範を示すことはできるが、聞いてきた人に自分で考えてもらうしか無い。そして、少なくない人が自発的に道を見つけてきたと感じたのは事実である。そして、その道は多様だ。パウロがなぜ第二朗読のような多様性を許容する考え方に至ったのだろうか。ガチガチの権威主義者でその正義の故にキリスト教徒を弾圧してきた。しかし、彼はイエスに会った(と言っている)。そして、伝道者になった。

信徒は、ペンテコステを記念して自分の信仰の原点と自分に固有な使命について思いを致す日とするのが良いだろう。

クリスマス礼拝など特に伝道を意識するような際には、物語的な定番説教だけでなくイエスの教えを伝えることにより注力すると良いと思う。本日の第二朗読は、繰り返し取り上げられてよいのではないだろうか。

6年前ペンテコステの日は、砧教会はコロナ禍に自ら決めた会堂礼拝再開基準を満たしていたが、金井美彦は会堂礼拝を見送った。そして、再び基準を割った翌週2020年6月7日に会堂礼拝を強行して総会決議に違反した。それ自身は判断としてはありだと思うが、総会決議に違反した事実を彼は決して認めず、自分には権威があると言いはったのである。牧師や教会(役員会)が罪を認めなければその罪は牧師、教会に残る。誰もが忘れてしまったとしても、責任者がいなくなっても清算できなかった罪が無くなることはない。もちろん、罪があってもそれは個性の一つに過ぎないから、それを超えて歩みを進めれば良い。しかし、現実に向き合って罪を罪として認めて新たに歩みを進めたほうがはるかに良いだろう。敗戦を終戦と言ってごまかすようなことはしないほうが良い。私は今後も道を真っ直ぐにせよというメッセージを発し続けるだろう。総会決議を守ることは当時役員だった私の使命だと信じているからだ。もちろん、総会決議が不適切だったことが分かればそれを見直すのはおかしなことではないが、ごまかしてはいけない。6年経過しようと、100年経過しようと事実は変わらない。責任を負う立場のものは自分が当事者でなくても責任を果たそうと努力する義務がある。

※ペンテコステ事件の場所は特定されていないが、最後の晩餐の場所と同一と考える説もあり、冒頭の画像はその候補となる場所のもの。Wikipediaの上の部屋経由でたどり着いたもの。