今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第4主日 (2026/3/15 ヨハネ9章1-41節)」。3年前の記事がある。盲人の癒やしの記事はマタイ伝9章、マルコ伝8章、ルカ伝18章にあるが、この個所はその後の話に焦点があたっているのが特徴的。
福音朗読 ヨハネ9・1-41
1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。6イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
今日の箇所は、割と長い。1節から7節は治癒奇跡の話でもあるが、彼が盲人になったのはどのような因果かという問いと答えが目を引く。何か悪いこととが起きたら、それには理由があってそのせいで不幸な状態になると考えるのは自然な感覚だと思う。しかし、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えた。生まれつき目が見えなかったということから考えると親のどちらかが罪を犯したから罰としてその状態になったと考える人はいるだろう。もちろん、因果関係があって問題が起きることもあるが、不摂生をしていてもしていなくても癌になったりならなかったりするように、どちらかといえば確率的な運に支配されていると考えるのが合理的だ。イエスは「神の業がこの人に現れるためである」と言った。一つの考え方としては、人には一人ひとりその役割が与えられていて、長い不幸の時期も神の業が明示されるための役割だったというものだ。そうだとすれば神もひどいものだ。自分の力を示すために不幸を許容したことになる。とはいえ、特に障碍がないからといって幸せになれるわけでもないし、裕福だったり権力を持っていたからといって幸せになれるものではない。人と比較して彼より私は不幸だとか幸福だと考えるかも知れないが、その状態が永続的でないことは誰でも分かっているし、そもそも必ず人は死ぬ。病や窮乏に襲われることなく生きていられればありがたいとは思うが、次の瞬間に何が起きるかはわからない。
イエスの治癒奇跡でこの人は見えるようになった。この因果は明白である。それを見た人はイエスなら自分が抱える困難も解決してくれるかも知れないと期待しただろう。この人についていけば幸せになれると考えたかも知れない。
13節から17節はファリサイ派の人による本人への尋問。この部分はちょっと不思議だ。盲人が見えるようになったのだから、まず良かったねという形で話が進みそうなのになぜそうならないのか。すごいことが起きたと感じたのは間違いないだろう。次の瞬間に自分たちの権力構造が維持できなくなるかも知れないという恐れが生じたとしか思えない。「愛」<「権威」に生きる人生は人との比較、序列化に生きることになる。権威を犯すものを排除しないと序列は維持できない。誠実で愛のある人であっても、そういう社会では生き残るために戦わなければいけない。そうでないと自分が排除される側に立たされるからだ。そういう世界に生きている人であっても、盲人が見えるようになったという本人の体験を否定しようはない。
18節から23節はファリサイ派の人による親への尋問。本人の体験は否定できなかったとしても、権威側にとって不都合な情報が拡散しないようにプレッシャーをかけたと考えて良いだろう。どのような親だったかはわからないが、子どもの自立が期待できるようになったことを喜ばなかったとは思えない。介護からの解放を含めて彼らの人生も変わり始めたところだ。今後に向けて動くことが重要だから、権力の維持への興味はなくなるべく関わり合いたくないというのが本音だろう。
24節から34節は再び本人への尋問。ファリサイ派の人たちは手詰まりで正統な権力者はこちら側であることを主張しているが、決定的な体験をした人にとっては全く意味をなさない。こういうことが繰り返されたら、問題の元から絶たなければ自分たちの未来は暗いと考えるのは必定だろう。そもそも、本来ありもしない権威にすがっていたのだから、いつかは剥げ落ちるものなのである。そして、彼ら自身がそれに気がついていたのだと思う。しかし、その本来的でない秩序の中で生きたとしても幸せになれるわけではない。
35節以降はイエスとの再開と一連のできごとへの解釈が書かれている。ここには「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」という有名な言葉が書かれている。ファリサイ派の人たちも努力して地位を得ているわけだから、それだけ自分は良く正しいことを判断できる力をもっていると考えるのは自然だが、閉じられた世界の話であって、イエスに対して、自分たちのほうが見えていると主張しても意味がない。イエスには霊がついていて、神から直接メッセージや力が降ってくるのだからかなうわけがない。一方、イエスも人間である。一人の人が及ぼすことができる影響範囲は限られている。また、人間としての命は有限でいつかは死ぬ。この部分には「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」というイエスの言葉が書かれているが、裁く(κρίμα)ために来たと書かれている福音書個所はない。私は、イエスはこの個所の通りの発言はしていないのではないかと思う。裁くのは神だという主張をしていたのが実際だろう。ヨハネ伝は人間として生きたイエスを最初から神として書いているように読めるので、(使徒信条にある)「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とあるイエスが既にここで現れている形になっているのかも知れない。
この世の現実は比較の連続である。人の命をなんとも思わないような権力闘争も続いているし、公権力が正常に機能しなければ安心や安全を得られない。公権力に属する人も役割、市井の人も役割、果たすべき務めを果たしつつ平等であるという教え、言い換えれば優れた能力を有していたとしても、それが自分に帰するものと考えずに与えられた使命と捉えることが求められることになる。自分は特別という思いに囚われてしまえば、ファリサイ人化するということだ。
福音のヒント(3)で、「自分たちが納得するために彼らがとった方法は、イエスによるいやしの事実を否定する、ということでした」という分析は、自分は正しくありたいという心的事象で、私がしばしば陥る心理状態である。頑張ることで視野狭窄に陥ってしまうのだ。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」に聞かねばならないだろう。
誰もがその人にとってこれが正しい道だ思う道がある。あるいは、誰かに依存して道を決めることもある。実際には、一つの決まった正しい道など存在しないが、しばしば分かれ道に直面する。その時、私には見えているという奢りがあれば道を誤るリスクが高まる。自分の理解から外れてしまうような現実に直面したときにこそ、謙虚に考え直す必要がある。
それでも、結局は自分が信じる道を選択するしか無い。今、見えていなかったとしても、時が来ればイエスによって見えるようにしてもらえるだろう。自分の理解から外れてしまうような現実に直面するということは、自分が見えていないということでもある。私は、この時のファリサイ派の人たちにも後に改心した人がいると思う。そういえば、パウロはこの時にいた人ではないだろうが、熱心なファリサイ派の人だった。必要な時にはイエスは生きて働くのである。
※画像はEl Greco: Christ Healing the Blind。右側の人々に自分を重ねてみなければならないと思う。