新生活282週目 - 「律法について、腹を立ててはならない、姦淫してはならない、離縁してはならない、誓ってはならない」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第6主日 (2026/2/15 マタイ5章17‐37節)」。3年前の記事がある。福音朗読個所の明確な並行箇所はない。

福音朗読 マタイ5・17-37

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
 《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
 20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
 21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
 《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》
 27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
 《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
 33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
 《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」》
 37 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

第一朗読 シラ15・15-20

15その意志さえあれば、お前は掟を守り、
しかも快く忠実にそれを行うことができる。
16主は、お前の前に火と水を置かれた。手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。
17人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。
18主の知恵は豊かであり、主の力は強く、すべてを見通される。
19主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。人間の行いはすべて主に知られている。
20主は、不信仰であれとは、だれにも命じたことはなく、罪を犯すことを、許されたこともなかった。

第二朗読 一コリント2・6-10

 6〔皆さん、〕わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。
10わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。


BSBでの参照個所は以下のようになっている。

The Fulfillment of the Law (律法について) 17-20

Anger and Reconciliation (腹を立ててはならない) 21-26
(Luke 12:57–59)

Adultery (姦淫してはならない) 27-30
(Leviticus 18:1–30)

Divorce (離縁してはならない) 31-32
(Deuteronomy 24:1–5; Luke 16:18)

Oaths and Vows (誓ってはならない) 33-37
(Numbers 30:1–16)


新約聖書の参照個所となるのはルカ伝12章と16章。ただ、比較してみると一致点はあるものの、並行個所と呼ぶのが適切かは微妙な感じがする。

3年前に「福音のヒントで「ある聖書学者は、初代教会の中で新しくキリスト者になった人々に対して、キリスト者としての新しい生き方を指し示すという意図の下で集められたのではないかと述べています。」とあるように入門書的な匂いが強い」と書いている。そのコンテキストで考えると、第一朗読で信仰生活指針を記したシラ書、第二朗読でコリント前書の知恵の記述が選ばれているのに納得感が出てくる。

20節の「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」が中心メッセージとなり、その義は、第二朗読の知恵の示すものということになるのだろう。

ちなみに、福音のヒントでは二重山括弧が用いられていて、福音朗読の大半がその中に納められている。それを除くと以下のようになる。

 20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
 21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
 27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
 33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
 37 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


20節の後に「例えば、」を挟めば、以下のような律法学者が義としているものを超えなければいけないという話に取ることができ、37節の頭に((コリント前書にある)神の知恵に従って)を補えば、それに従って是非を判断せよという意味になるのだろう。書かれている文自身の是非ではなく、それを超えて「神の義」は存在するのだというのがマタイの解釈なのだと思う。「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」は、もともとは完全な律法が設定されていたのに、律法学者やファリサイ派に至る長い歴史の中で曲げられてきたが、イエスはその本来の形を示しているというマタイの解釈だろう。イエスがそのとおりに語ったかどうかはわからないが、「まず神の義を求めよ」を言い換えた教えと取って間違いないと思う。

シラ書もパウロ文書も、それぞれのコンテキストで現実的な生活規範を説いていると取って良いだろう。しかし、一般的な規範があっても「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」は、その瞬間にその人が判断しなければいけない。まあ、多くの局面で共通の回答が導かれる問はあるだろうが、常に使える正解が事前に与えられている、あるいは文書化されているということではない。性に対する規範、あるいは家族の考え方は最たる例となる。男女のカップルと子どもからなる家族は好ましく感じられるし、それを標準形とする法律が制定されるのがおかしいとは思わないが、そういう形態でない家族であっても愛に溢れた関係が成立していることは間違いなくある。教条的ではなく、それが「神の義」に沿っているかどうかはよく考えて判断しなければいけない。イエスの所謂不義の女に対する「私も裁かない」というメッセージはその一例となるだろう。石打の刑にせよという法律をそのまま適用するのは「神の義」とはならないということだ。

現実には正解は一つに収束しない。人によって聞こえる「神秘としての神の知恵」も一致しないことは少なくないだろう。静かに愛の原理に従って判断するしかないと思う。

最近の保守かリベラルかといった議論も突き詰めれば、リベラルは誰ひとり取り残すことなく人権を尊重していくことになるから、持てるものは過剰分を奪われることになる。急進的に徹底すれば耐えられない思いを味わうことになる。全人類の所得を強制的に均等化したら、先進国とされる国の民がとても耐えられるとは思えない。もちろん、私もそうだ。

アメリカであれば、人種差別による搾取で経済が成り立っている側面があるから、差別を解消しようと思う人であっても、一気に変えていくことは現実にはできない。しかし、できる限り速いペースで解消の方向を目指すのが本質的な「神の義」だと私は思う。自分、あるいは自分たちの努力で今の豊かな暮らしが築けてきた、あるいは中華思想のように、そもそも私、あるいは私たちには他の人達より豊かで幸せな暮らしができる権利があると考えてしまうと、解消が遅れたり逆転したりする。

排他的な愛国心は最悪の選択なのだが、自国、他国に関わらず独裁者の存在を許せば、その専制と隷従に対応しないわけにはいかない。現実に対処しつつも目指すべき方向を間違えてはいけない。

マタイ伝5:20には英文Wikipedia記事がある。そこから引用させていただいたThe Sermon on the Mount - William Brassey Hole