新生活267週目 - 「ラテラン教会の献堂」の祝日

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「ラテラン教会の献堂(2025/11/9 ヨハネ2章13-22節)」。先週に引き続き、祝日モードである。カトリックの教会暦では「11月9日(日・祝・白) ラテラノ教会の献堂」とある。

福音朗読 ヨハネ2・13-22

 13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


この祝日も馴染みがない。ラテラノ教会はローマ、バチカンから東南東6km程度にある。Wikipedia等に書かれている話によると、所謂総本山に当たる会堂で、1309年 - 1377年に教皇座がフランスに置かれていた間に荒れ果てたため、再度教皇座をローマに戻した時にこの会堂に戻らずバチカンに置いたことになっている。聖パウロ女子修道会のページによれば、この献堂記念日が11月9日に祝われるようになったのは11世紀だと書かれている。また、『難しかった。ラテラーニ家とネロ帝とコスタンティヌス1世について』というブログに背景が書かれている。それぞれの記事がどれだけ正確なのかはわからないが、ローマ・カトリック教会の原点をここに置くことに納得感がある。

福音のヒント(4)で「教会そのものが「秘跡」すなわち「目に見えない神の恵みの目に見えるしるし」である」と書かれているのが興味深い。正直「秘跡」という言い方に違和感を感じるが、ローマ・カトリックの存在が現在のキリスト教にきわめて大きな影響を与えたのは間違いない。第1ニカイア公会議が325年、コンスタンティヌス1世の時期であり、教会の組織化が政治的バックアップとともに進んだ時期、ラテラン教会はローマの総本山として位置づけられたということだろう。一方、ニカイアは現在のイスタンブールから100km強の場所で、コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープル(イスタンブール)で棺に収められていてローマ・ギリシャ語圏の総本山になったと考えることができる。11世紀にギリシャ正教とローマ・カトリックが分裂している。395年にはローマ帝国が東西に分裂しているので、実態としてはローマ・カトリック成立後の早い時期から教会も分裂していたと考えるほうが適切な気がする。新約聖書がギリシャ語で書かれていることから考えると、ローマ・カトリックの方が亜流と考えたほうが良いと思う。しかし、オスマン帝国で東方ではイスラム教が政治的に正しい宗教となり、組織的な教会としてはローマ・カトリック側が残ったのだろう。

法の背景としてキリスト教倫理を置くか、イスラム教倫理を置くかで国の形は変わる。

宮清めの話は宗教を金儲けに使うなという話だから、私の感覚では過去の献堂の記念は本来のイエスの教えには反する。教会の正統性の主張で危うい。

とはいえ、祝日に指定することで、改めて歴史を振り返る機会を与えることになる。単純に良かったなあと思える面もある。コンスタンティヌス1世さんありがとうという気持ちにはなる。しかし、偉人やその行いを祝うのは教会の都合でしかない。

今日の聖書箇所で印象に残るのは19節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。この箇所はマタイ伝26:61、マルコ伝14:58で偽証として言及されているが、ルカ伝にはない。恐らくイエスは何らかのタイミングでその言葉を発したのだろう。器自身には意味はないという意味と解釈したい。イエスという神の霊を担う器を壊しても(殺しても)、それで終わるわけではなく、かえって器を壊すことによって本質があらわになるという解釈もなりたつだろう。

バチカンが倒れた時に何が起きるのだろうか?

コンスタンチノーブルがローマの宗教右派によって自由を失い、ついでオスマン帝国によって国教から転落する。しかし、東方教会は絶えなかった。なぜか?

伝承の元を辿る限り、ユダヤ教の神も、キリスト教の神も、イスラム教の神も同じ神である。しかし、シェアがあるだけでは本物である証明にはならない。結局は自分の心に問うしかないのである。

※画像はEl Greco: Christ Driving the Money Changers from the Temple