今日、キリスト者(クリスチャン)の起源を学んだ。
使徒行伝11:26で「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(Χριστιανός (Christianos))と呼ばれるようになったのである」という箇所。英語ではChristianと訳されている。それまでは、イエスの弟子を自称するものだったらしい。キリスト者という単語は使徒行伝26:28でアグリッパ王がパウロに「短い時間ででわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」という発言、1ペト4:16で「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」の3回しか出てこない。
私がとても嫌いな言葉は「私達クリスチャンは」というフレーズである。この言葉には隔ての中垣を設ける力があり排他的だ。
教会員か教会員でないかは、会員制度があれば明確に区別することはできる。しかし、個別の教会は明確に会員か非会員かを明らかにすることはできるが、教団レベルでは明確化は困難である。西方教会と東方教会は相互に(形式的には)認め合っているが、カトリックはプロテスタント教会の会員を正式にはクリスチャンとは認めていない(現実的にはクリスチャンであることを否定していない)。聖公会も分派である。区別すること自身に無理があるのだ。
自分がキリストの弟子であると名乗るのは(現代の自由主義社会に暮らす人々にとっては)自由である。それを自分はクリスチャンであると告白することとは概ね同じ意味と言ってよいだろう。
しかしながら、「私達クリスチャンは」というと急に認定されたクリスチャンか否かが問題となる。暗に、ここにいる認定キリスト者はという意味になり、価値観を強制することになる。
そういう考え方の延長に十字軍があり、ナショナリズムによる殺人の正当化につながるのである。
ネタニヤフのイスラエルは、入植を正当化するナショナリズムが大日本帝國と酷似している。支配、被支配の構造への誘惑に負ければ、悲惨が待っていることをユダ王国の滅亡からも学ぶことができていない。歴史に学ぶということは正史を作ることではない。事実に向き合って、未来のために過去の事実に向き合うことである。私は、石破談話に好感をいだくとともに、「私達クリスチャンは」という表現を説教で用いる牧師をその点については強く糾弾する。