わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7)

本日の説教は「安息日に麦の穂を摘む」という見出しの箇所。強調されていたのは6節の「偉大なもの」の「もの(中性)」が「者(イエスを表す男性系)」でない点だった。では「もの」が何を意味するのかは理解することができなかった。集中力が足りなかったのかも知れない。実は、本日の聖書箇所ホセア書6:-1とマタイ伝12:-1の訳の違いに思いが飛んでしまったのだ。

表題の句はホセア書6:6の引用、マタイ伝では9:13でも同じ箇所が引用されている。直接的なホセア書6:6の引用があるのはマタイ伝だけだと思う。この憐れみという単語は福音書ではマタイ伝で3箇所、ルカ伝で6箇所(1章で5箇所マリアの賛歌以降で出現、10章の善いサマリア人のたとえで新共同訳では「助けた」と訳されている)。マルコ、ヨハネでは出てこない。

新共同訳ではホセア書の訳は「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」となっている。マタイ伝では憐れみ、ホセア書では愛となっている。英語では、ホセア書ではmercy、loyaltyと訳されていて、マタイ伝では、mercy、compassionと訳されている。

英語のmercyは、日本語訳では慈悲という言葉である。仏教用語であるが、それに沿ってそれぞれを書き換えると「わたしが求めるのは慈悲であって、いけにえではない」、「わたしが喜ぶのは 慈悲であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」となる。愛という言葉はどうしても性愛を想起させるので、愛=慈悲と捉えたほうが日本人には理解しやすいだろう。また、意味的にも慈悲に近いと私は考えている。ただし、個人的には慈悲には強者から弱者への視点が感じられて、私が持つ愛という言葉の意味との乖離はある。多分、同じ意味で私の慈悲という言葉への理解が足りないのだろう。

憐れみという言葉にも上下関係が想起させられる。また、loyaltyという英訳から考えると「わたしが喜ぶのは 忠誠(服従)であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」となる。大きく意味は変わる。しかし、意味は通る。焼き尽くす捧げ物は忠誠、服従を示すための行為であって、忠誠そのものではない。形だけじゃ駄目だという解釈となる。旧約聖書的にはこの訳の方がしっくりくる気がする。一方で、神は慈悲を善しとするという記述もモーセ五書の記述と整合する。今日の説教では麦の穂を摘むことは合法であって、パリサイ派はそれを安息日にやることが違法だと糾弾していることに言及していた。麦の穂を摘むことを合法にしたのは所有権を認めつつも慈悲が機能しなければならないという指令と解釈することができる。

慈悲は相手の状態を問わない。許すという行為は、相手が罪を認めない限り成立しないが、慈悲は罪を認めない人に対しても成り立ち得る。では、無条件に慈悲を発動したらどうなるかをプーチンやトランプを念頭において考えると現実的ではない。そういう現実を直視しながら、自分の進む道を選ばなければいけない。

feedback
こちらに記入いただいた内容は執筆者のみに送られます。内容によっては、執筆者からメールにて連絡させていただきます。