今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第23主日 (2025/9/7 ルカ14章25-33節) 」。直接的な並行箇所はないが、biblehubではマタイ伝10:37、マルコ伝8:34、ヨハネ伝12:25などがReferenceに含まれている。3年前の記事がある。3年前の記事でも、砧教会が道を外してしまったことを嘆いていた。当時書いていた覚悟の話に関しては今も気持ちの変動はない。変わったのは、「自分が根本的になにか間違いを犯している可能性もある」という怯みが失敗だったという思いである。保身に堕ちた者たちの良心に期待したのは大失敗だった。自分もいつ堕ちてしまうかわからない。学びのもとに日々の生活を続けるしか無い。不義との戦いを始めた以上、止めることはできない。
福音朗読 ルカ14・25-33
25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
福音のヒント(3)で「塔のたとえ話」と「王のたとえ話」について言及されている。「まず腰を据えて」という記述に注目しているが、慎重に考えて準備を行っていてもうまくいかないことは少なくない。「良いことは必ずできる」と信じることで人生は変るが、現実は甘くない。自分の経験を振り返れば成果を出せなかった挑戦は多い。それを自分が無能だからだとまとめることもできるが、無能だから挑戦しなくてよいという風に思うことはできない。過去の失敗に学び、次につなげれば良い。無謀にならないように計画するのは良いと思うが、一歩を踏み出さなければ自分も世の中も変えられない。
イエスの弟子として生きるということはどういうことだろうか。その出発は信仰告白となるだろう。正に信徒として一歩を踏み出す瞬間である。日本基督教団口語式文の洗礼式で聖書は何箇所かがあげられている。伝道の使命を強く意識させられる箇所として使徒行伝8章がある。ピリポがエチオピアの宦官に洗礼を授けた箇所でエルサレムからガザに向かう道であったと記されている。申命記23章に従えば、異民族で宦官であれば会衆に加わる資格が全く無いことがわかる。申命記史家による律法解釈の否定にあたり、キリスト教のユダヤ教からの独立を強く意識させる。使徒行伝とルカ伝は同一の著者と考えられている。「まず腰を据えて」は一見おかしく見えることでも、イエスの教え、聖霊の働きに立ち戻ってなすべきことをなせと読むことができる。
改めて今日の箇所を読み直すと、教会のあり方についての話と取ることもできる。
御国を来たらせ給えという祈りの主体を教会に置き、家族を捨てて教会に入れ、そして「まず腰を据えて」計画的に活動してあるべき社会の構築に注力せよと読むことができるだろう。
個人の問題と、信仰者のあり方を丁寧に考えなければいけない。家族愛を否定しているわけではない。
『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』は、まだ小さかった当時の教会の行くすえを警告するようにも読めるし、「ほかの王と戦いに行こうとするとき」はユダヤ教やその他の宗教勢力との戦いと読むこともできる。
この段落は、並行箇所がないことからもルカ伝の著者が有する価値観をイエスに語らせたのかも知れない。
信仰告白では「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と書かれている。福音書には記述に異なる箇所はたくさんあるし、モーセ五書も記述の矛盾はある。旧約聖書には申命記史家の解釈が入っていて、イエスはその解釈が間違っていることがあると言っている。また多くの預言者が聖書の読み解きを時の常識や権力者の意向に反することを述べている。同じように福音書や新約聖書にも執筆者の解釈が含まれている。それでも、「霊感によりて成り」と告白してよいのだと最近思えるようになった。
事実に対する記述は重要だが、明らかに事実とは異なると思われる箇所でも聖霊の働きはあったのだろう。逆に、人の思いによる記述と聖霊の働きによる記述は区別がつかない。例えば、ゲッセマネの祈りの時、連れて行かれた弟子は寝てしまっていたから、その祈りの内容が聖書に記述されているのは不思議なことだ。その記述の通りのことがあったのか、それとも福音書記者が創作したかはわからない。イエス伝を記すにあたって欠かせない箇所だから、その時のことを聖霊が教えたと解釈するしか無いだろう。
事実がどうだったかということと、メッセージが何だったのかは別の話である。ただただイエスの追っかけをやっていても、それはイエスの弟子として生きるということにはならない。聖霊に聞け、そして慎重であれ、そして行動せよと読めば良いだろう。
※画像はレンブラントの宦官の洗礼。蛇足であるが、使徒行伝8:26で「ガザ」という単語が出てくる。この言葉は新約聖書でここでしか用いられていない。現在、Google Mapsでは、エルサレムとガザの移動経路を検索すると答えが得られないが、当時はエチオピアの人が移動できる道があったと読める。シオニズムは忌避されなければいけないと思う。同時に反ユダヤ主義に走ってはいけない。御国を来たらせ給えという祈りの解釈で全く異なる行動につながることがわかる。