新生活258週目 - 「客と招待する者への教訓」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第22主日 (2025/8/31 ルカ14章1, 7-14節) 」。直接的な並行箇所はないが、11節はマタイ伝23章12節とほぼ同じだ。3年前の記事は長文で今でも異論はない。ちょうど、先々週に「人生は慢心と闘うことと見つけたり」と発言したのだが、それからすぐにこの箇所を読むことになるとは思っていなかった。


福音朗読 ルカ14・1、7-14

 1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
 7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

第一朗読 シラ3・17-18、20、28-29

 17子よ、何事をなすにも柔和であれ。
 そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
18偉くなればなるほど、自らへりくだれ。
 そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
20主の威光は壮大。
 主はへりくだる人によってあがめられる。
28高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。
 彼の中には悪が深く根を下ろしている。
29賢者の心は、格言を思い巡らし、
 知者の耳は、格言を熱心に聴く。


謙虚な有力者をイメージするのは難しい。神を最高権力者とする宗教は神の裁きが待つ。教訓として「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」はわかりやすいが、本当にイエスはこの通りの発言をしたのだろうか。

福音のヒント(2)ででてくるへりくだる(「タペイノオーtapeinoo」)という言葉は、Englishman's Concordanceでは、ταπεινόω (tapeinoó)で、新約聖書で14回出てくる。福音書ではルカ伝で5回、マタイ伝で3回でマルコ伝でもヨハネ伝でも用いられていない。2コリ11章では、パウロの姿勢を表す単語として用いられ、12章21節では日本語では「面目を失わせる」という訳が当てられている。福音のヒントではフィリピの信徒への手紙の2章8節が引用されていることからも、この言葉はパウロが使い始めたのではないかと考えさせられる。あるいはWikipediaで「2:5-11の部分のみは後代の加筆であろうと考えられている」とあることも考えると、教義の文書化の過程で作られた表現で、イエスが話した言葉ではなかったも知れない。

一方、本日の第一朗読のシラ書(残念ながらbiblehubにはない)で「へりくだる」という言葉がある。この箇所には新共同訳では「謙遜」という見出しがついている。シラ書はイエスが生きた時代より前の書物だから、考え方としては昔からあったということだろう。その倫理観をパウロが継承したという考え方も成り立つかも知れない。

しかし、いろいろな可能性があったとしても、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のインパクトは絶大である。日本の倫理観にも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」があることから汎用的な観念かもしれない。

3年前に書いたようにへりくだれば良いということではない。

単なる処世術ではなく、慢心せずになすべきことをなせという教えだと考えている。

ちなみに、英語版Wikipediaにはこの箇所(Parable of the Wedding Feast)の記述がある。そこでも11節への言及がある。関連する絵画を探したが、あまりピンとくるものはない。

Parable of the Wedding Feastでの画像はこの13世紀のルカ伝の最初のページが掲載されている。