新生活199週目 - 「十二人を派遣する」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第15主日 (2024/7/14 マルコ6章7-13節)」。3年前の記事がある。マタイ伝10章とルカ伝9章に並行箇所がある。

福音朗読 マルコ6・7-13

 7〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

この箇所を読んで派遣された弟子はどきどきワクワクだっただろうと思っている。イエスに派遣されたら出ていかなければいけない。とにかくやってみようと考えただろう。この新生活ブログは199週前に日本基督教団砧教会を離れる決心をして書き始めたものである。理由は、主任担任教師の金井美彦が総会決議を違反した事実を自己保身のために当時の書記役員の佐分利正彦と結託して隠蔽し独裁者に堕ちたからだ。取り巻きのK女史が太鼓持ちをやった。その後諸般あって、別帳会員ながら礼拝には参加するようになっていたが、5週間前に事実を示す証拠も明白なのにかかわらず砧教会の役員会は2020年6月7日問題を蒸し返さないと組織決定を行い発表した。組織ぐるみで事実の隠蔽を進めるという決断を行ったとうことだ。潔白なら、全く必要のない決断を行ったという事実から、砧教会は組織的に腐敗したことになる。本当に残念なことだ、罪を認めないものは許しようが無いわけで、金井美彦は砧教会の会員を扇動して罪を犯さしめたということになる。牧師として会員を巻き込んで自己保身を謀るのはあくまで個人的な意見であるが、聖職者として最低最悪だと思っている。とは言え、今も彼が悔い改めて真実の道に戻り、砧教会が正常化して安心して通える場になる日を願って祈っている。

役員会決議を受けて、4週間前に少なくとも一定期間再び腐りきってしまった砧教会の礼拝に出るのは止める決心をした。ある意味で新新生活が始まったことになる。砧教会の礼拝に出ることを中止したとしても私の中の信仰心は変わっていない。何らかの形で伝道活動に関わる義務を負っていると自覚している。自分ひとりで正しい道を歩めるかは不安でいっぱいだが、腐った砧教会と共に伝道活動に向かうことは今はできない。新たな道を探すしか無いのである。

教会はイエスではない。しかし、イエスに近づくためにはコミュニティは強力な助けとなる。2人で伝道旅行に行くというこの箇所は今の自分にはかなり響く箇所である。

弟子たちは、不安だっただろう。同時に、何かあっても最後はイエスが何とかしてくれると考えていたと思う。

私は今とても不安だ。しかし、同時にいかに金井美彦や佐分利正彦、加えて砧教会員から真実を求める人権を蹂躙されようとも、最後はイエスが何とかしてくれると考えている。それが自分の生きている内に叶うかどうかもわからないし、彼に巻き込まれてしまった人たちの中にも良心は残っている。教会も病に落ちることもあれば腐って滅びることもある。しかし、教会が死んでも会員がすべて裁かれるわけではない。恐らく、仮に厳重注意を受けたとしても、みな許されるだろうと思う。きっといつか真実の道に導かれるだろう。

時代は変わる。現代における弟子の派遣は2000年前とは同じではない。米国福音派はトランプ支持の牙城だ。今は真実より、強いリーダーの価値を優先する風が吹いている。メガチャーチはビッグビジネスで実態としては個人に依存したカルトと変わらない。キリスト教会も常にそのリスクにさらされている。

福音(良い知らせ)は伝えられなければ人々に届くことはない。聖書は良いツールとなった。加えて宗教改革で多くの人が自分の言葉で仲介者(宗教指導者)の助けを借りずに自分でアクセスできるようになった。印刷技術と(限定的)民主化が進まなければ実現しなかった事象である。その過程で、贖宥状ビジネスで民衆から搾取していた聖職者の一部は没落した。教会から給料を得ている金井美彦のような教師はその行いが正しく認知されれば、信を失い職を失うだろう。インターネットの時代は、嘘はかなりの確率でバレる。バレる前提できちんと罪を告白して悔い改めたほうが良い。一方現実もにはバレたからと言って、何らかの意味で強い安倍やトランプのようなリーダーは権力を維持できるのだ。そういう時代の伝道は、新しい道も探さないわけにはいかない。まず、真実と思われることを有効な方向できちんと発信することだと思う。その時、自分が邪悪にならないように心しなければならない。黙っていることを含めて不都合な事実を隠蔽して人を扇動してはいけないのである。それを守っても伝道はできる。

信仰は体験から得られるものだ。不治の病の治癒あるいは治癒の事実は大きな体験だ。現代でもそのようなある種の奇跡は大きな力を持つ。しかし、奇跡は本質ではない。人々に心の自由をもたらす教えを現代的に扇動ではなく伝えなければいけないと考えている。

「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」は、そのある家をある教会と言い換えても通じるだろう。私はまだ足の裏の埃を払い落としてはいないが、いつか決断しないといけない。言い換えれば、まだ「そこを出ていく」と決めているわけではない。

※冒頭の画像はWikipedia経由で行き当たったhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oliven_V1.jpg。「油を塗って多くの病人をいやした」の油はオリーブオイルだった説が有力だが、イエスは油を塗っていやしたことはないようにも思える。3年前の私も油について気にしていた。その油には何か別の薬が調合されていたのだろうか。

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