2024年2月29日にしののめ茶寮で自由学園・理科大同窓会が開催された。遅れてきた学長の第二の乾杯は、まず祈祷から始まったのがすごかった。
私は1960年1月生まれで、1972年4月に自由学園男子部普通科に入学した。文部省令上の大学ではないが1978年4月に4年制の自由学園最高学部に進学した。中高の頃から数学に興味があって、頑張ればひょっとしたら数学者になれるのではないかと思っていた。理解できる部分は一部だったが、数学セミナーを読むのを楽しみにしていた時期もある。1979年に親の転勤で寮住まいになり、今となってはなぜどうして決断したのかわからないのだが、東京理科大学の理学部二部数学科の編入試験を受けることにして合格した。併願で同学科の通常試験も受けた。その後、編入する際の単位認定を認めるということは、自由学園を大学同等と認めることになるから、退学しないと単位認定を認められないとする事務方の意見や、理科大は私学なんだからそんな些細なことで排除すべきでないとする教授が反論したとか、形式的に退学して復学する策はないかという提案を自由学園長にして認められなかったりしたのだが、結果的には併願の1年次通常入学を選択することになった。だから、1人だけ名簿の順序に合わない最後の番号が振られていたと思う。
2人部屋の学部寮から、昼間は自由学園に通い、夜は飯田橋の理科大に通う生活が始まった。きつくて血尿が出たこともあったが、勉強は本当に楽しかった。一般教養は語学を含めて自由学園で学んだことと焦点の当て方には差異はあったが2回目だから正直単位取得は楽勝だった。今振り返ると大した実力はなかったのだが、編入試験に合格する程度の実力はあったのだから、関門科目にも学力的な不安はなかった。身体は弱かったのと、時の運はあるので楽勝だと思っていたわけではないが、無事だった。理科大の2年は、自由学園の4年だから、自由学園の卒業に向けてリズムが変わった。卒業間近な時期は自由学園中心になり、理科大の学友からは心配されたが、何とか乗り切ったのを思い出す。この時期の初めに決断したのは教職取得を諦めたことだ。何を優先するかを考えると時間を取られる教職課程の講座を捨てるのが得策だと思ったのだ。今振り返れば、二重学籍で卒業年度を2年間前倒しした代償となった。今も教職資格はないのでそれが選択肢を狭めている事実は否定できない。
自由学園を卒業すれば、寮を出なければならない。理科大の3年の頭は行きつけにしていた喫茶店ABBAの住み込みバイトで凌いだ。親の金を散在して学校外の居場所を確保して、そのオーナーの好意に甘えていたのだから今考えればとんでもないドラ息子なのだが、その恩恵は大きかった。数学会関連の先輩とのつながりもできて、離散数学にも興味を持つようになり、自由学園を卒業して空いた昼の時間を理科大で過ごすようになった。たまたま紹介されたIBMの東京サイエンティフィックセンターで学生研究員として働くようになり、親のつながりもあって日経就職ガイドのディスコ社で働くようになったのもこのころからだ。
理科大の4年次は、かなり慢心していて、学友からは心配されていたが、何とか最後の統計の単位をクリアして無事卒業した。
そんな記憶が同窓会の時に思い出されたのだ。
新自由学園長の更科幸一氏は、約10年下で自由学園と理科大で学んだ人である。たったそれだけのことで、母校の学長と懇親会を共にできることは大変光栄なことだと思った。私の人生と日本基督教団砧教会と自由学園はけっして切り離すことはできない。自由学園を受験したのも母が浅野順一牧師から推奨されたからだと思っている。
自由学園は、キリスト教主義で、自分の頭で考える人を育てることを強みとしていると思っている。今後も、社会の公器として頑張ってもらいたいと思う。自由学園・理科大同窓会に出席していた約15人の人の多くは教育者になっていた。次世代に善いものを引き継いでいく大切な仕事である。年齢を重ねても、安易に現役を退くことなく、同時に後進を邪魔することなく、ずっと活躍し続けてほしいと思ったのであった。私も、やれることはやろうと改めて思わされた幸せな時間となった。