今日の砧教会の礼拝では出エジプト記25章が聖書箇所だった。
見出しは幕屋建設の指示となっていて、かなり細かい聖櫃制作の指示がなされている。金井氏の講解は興味深く、ダビデ王朝の意図が織り込まれている可能性についての指摘は刺激的で心動かされるものがあった。説教者としての金井美彦は尊敬している。
聖櫃は十戒の石を収める箱で、レイダース 失われたアーク《聖櫃》で映像化されている。恐らくダビデ王の時代には実在していただろう。ダビデ王やソロモン王の実在性については疑義が提示されている。私は、実在していたと考えているが、理想化されていて聖書の記載は相当盛られていると考えている。
出エジプト記25章の記載は単なる放牧の民に向けた指示とは考えられず、ある程度都市化が進み、徴税が可能な程度に暴力支配が拡大している時代の話としか読みようがない。委細はともかく、金井仮説はそういう示唆をしていて私もそう思う。アンマなど度量衡は小さなコミュニティでは意味を持たず、複数コミュニティあるいは部族間で交易が行われるようにならなければ標準は生まれないし、標準が生まれれば裁定機関が必要となり、王国の成立を助けることになる。
十戒は、王権(人治)の制限となる。王からすれば、絶対的な権限を自分に属させたほうが気楽なわけだが、独裁は必ず腐敗を産みやがて体制は崩壊する。法は、持続性を高める知恵と言ってよいだろう。官僚的な知恵でもあるのでバイアスもかかる。28章には祭服の規定が出てきて、王とは別に官僚あるいは行政官の差別的優位性を規定している。現実的必要悪だ。私は知識と知恵のある人にグランドデザインを依頼するのは合理的な選択だと思う。ただ、そういう立場にある人は市井の民の痛みを理解することは難しい。頭の良い人だけの行政も破綻してしまうのである。トランプ支持は具体的な事例と言える。反体制は暴力的になるが、それはそうでなければ民意が実現しないからだろう。それでも、武力であれ言葉であれ暴力が発動すれば被害者がでる。
現実にはスーパーパワーは存在しない。常に不完全な状況が続く。行きつ戻りつは続くが、一時的な停滞はあっても私は良い方向に世の中は動いていると思っている。砧教会の現状についてもだ。やがて現在の苦しみから開放される時期は来るだろう。
それを専制と隷従の構造を使うことなく金井美彦ができるようになることを私は期待している。