新生活189週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2024/5/5 ヨハネ15章9-17節)」。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ15・9-17

 9〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

福音のヒント(4)で「選び」について触れている。宗教的な選びは、選民思想に結びつく。ナショナリズムと同じだ。「神はむしろ一番弱く、貧しいものを選ばれます。それはすべての人を救うためです」と書かれているが、神が選んだ人は選民となる。

アメリカの大学運動でパレスチナへのジェノサイド問題でイスラエルの政権批判デモが行われていて、事態はかなり深刻である。トランプは愛国心を煽ることで、自分の権力強化に熱心。バイデンはユダヤ資本に対していかにも弱腰だ。ハマスのテロは許されるべきではないが、どうみても反撃は常軌を逸している。私は、September 11 attacksとの類似性を感じる。テロは許されないが、米国の反撃(Iraq War)は適切だったとはとても思えない。選民を攻撃するものには鉄槌を下すという考え方は「互いに愛し合いなさい」というメッセージの対極的なものだが、「互いに愛し合いなさい」というメッセージは、選民を守れという扇動の源泉となる。

今日の第一朗読は、異邦人に対する洗礼の記事。

第一朗読 使徒言行録10・25-26、34-35、44-48

 25ペトロが〔カイサリアに〕来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。26ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
 34〔そして、〕ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
 44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、47「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。48そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

 「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。」とあることから、当時のキリスト教会はユダヤ人あるいはユダヤ教の一部に起きた神の救済というのがコンセンサスだったのだろう。その外側の人から称賛されるのは気持ちよかっただろうし、当然自制的な立派な振る舞いに努めただろうと思う。人の目があることで立派な振る舞いができるようになることは珍しくない。ペトロは使徒筆頭という位置づけにあり、信徒適格性を決める権限をもっていたわけで、彼が洗礼を認めるということは異邦人を分け隔てしない新時代が到来したことを意味している。パウロは割礼の有無で分け隔てしないように説いているし、イエス復活後の数年で、キリスト教は大きな変貌を遂げている。

一方で、そう簡単に価値観は変わらない。異邦人を二級信徒と考える信者はいただろうと思う。911は外国人で異教徒によって引き起こされたとされている事件で、外部からの攻撃と捉えられた。犯罪行為と犯罪行為を統括する組織は正されるべきと考えて良いと思うが、だからといって街を破壊して一般人に犠牲者を出して良いということにはならない。911ほどの規模ではなくても、自国民起因のテロは少なくない。アメリカでは銃撃事件は日本とは比べ物にならないほど多いし、2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件は記憶に新しい。こちらは、犯罪事件として扱われていて、顕著な犯罪行為を行ったものも法の下の裁きが行われている。911のリアクションで同じ基準が適用されていれば、全く違う対応になっていただろう。

ただ、国外ではアメリカの法の支配はそのままの形で及ばないから、同じ基準を適用することはできない。そういう意味では、EU的な共通ルールの高度化が適切なアプローチと言えよう。

原始キリスト教会は天国に入る鍵を預けられていると信じられていたから、ペトロはかなりリスクの高い役割を担っていたことになる。ヨハネ伝は、その権威付けに貢献していると思う。言い換えれば、正統性の解釈の文書化となっている。「互いに愛し合いなさい」は教会の内側の話として解釈することになり、教会のユダヤ人を越えた拡大は内側を広くするということであって、壁をなくするものではない。

人間イエスは、当時排斥対象や見下げられていた人たちと公平に接していた。少なくともユダヤ人の間で偉い人でも虐げられている人でも同じ人間と考えていた。復活のイエスはそれを国を超えた範囲で拡大させた。

ただ、教会は新たな内と外の問題を生み出した。多くの人を抱える共同体には大きな利権が生じることは避けがたい。権力の固定化が生じ、弾圧も起きる。長い時間を必要としたが、カトリックでは宗教改革に直面することとなった。イエスの教えの原点に戻るとその逸脱感が無視できないレベルになっていたということだろう。それでも、大半はカトリックにとどまったわけで、蓄積された信頼は維持できている。同時にカトリック教会も不断の見直しは続けられ、様々な解釈が書き換えられてきている。大きな権力には改革のための時間的な余裕が与えられている。その蓄積を食いつぶすまでに時代に適応できれば良い。

「互いに愛し合いなさい」は格差のない社会を構築しなさいという意味にも解釈できる。

どう考えても不合理な格差が常態化すれば、社会は不安定化する。ガザのような状況を作り出せば、テロが起きる可能性は高まる。強い軍隊や警察力があればある程度防げるとはしても、それは時間稼ぎに過ぎない。現実の脅威を見据えれば防衛力や警察力の強化は避けられないが、強くなればなんとかなると考えるのは幻想である。差別や排斥を伴う既得権益は、長い目で見れば必ず失われることになる。

「互いに愛し合いなさい」は公共財を育てることで実現できると解釈することもできると思う。

※冒頭の写真は2021年米国議会襲撃の写真。Wikimediaから引用させていただいた。彼らにとって「互いに愛し合いなさい」という言葉はどういう意味を持つのだろうか。