新生活181週目 - 「イエスとニコデモ(後半)」

hagi に投稿

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第4主日 (2024/3/10 ヨハネ3章14-21節)」。共観福音書に並行箇所は見当たらない。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ3・14-21

 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕14「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 3年前の記事を読み直しても思うのだが、この箇所は私には難解だ。解釈ができないということではなく、ここからどういうメッセージを受け取るべきなのかがどうもピンとこないのだ。

福音のヒント(1)で「3章16-21節はイエスの言葉というよりも、福音記者ヨハネの言葉と考えることもできます」とある。3年前の記事では、1節から聖句を引用していて、全体の流れを見ると「人の子も上げられねばならない」の前に「13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」があるので、自分以外の人間は誰も天にいないと読める。じゃあ、エリヤはどうなんだという疑問も起きるが「人の子も上げられねばならない」は、イエスの復活と昇天を意味すると考えるのは自然だろう。イエスは死んでも生きて「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とあるように天から手を伸ばして救う、引き上げると読める。その後の16節はそれが神の意志であると説明しているが、特に19節以降は過度に説教臭い気がする。そういう言動がなかったとは思わないが、相手に自分で考えさせるようなトーンの方がイエスらしいと思う。

一方で、受洗準備の時期であれば「20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」は響く。光を求めているからである。受洗前の時期、私は、キリスト教の外側にいるという思いが高まっていた。内側に入りたいと思っていた一方、復活と昇天など非科学的だという思いを捨てることはできなかった。ふとある日ヨハネの黙示録の3章にある「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」が像を結んだ。今もイエスは動いていると思えたのだ。どうにもよくわからない部分はあるが、今なおイエスの声が届き気持ちが動くということは、ただ死んでいなくなった人ではない。この瞬間という瞬間があるわけではないが、復活などありえないという常識を越えて私はクリスチャンになった。決して理性の業ではない。ヨハネ伝には背中を押す効果があると感じる。

では、儀式としての洗礼にはどういう意味があったのだろうか。当時の正教師は浅野順一氏だったから彼が洗礼式を行ったが、自分の中での具体的な導き手は西村俊昭氏だったからどこかで彼に洗礼式を行ってほしいと思っていた。今は、誰が司式するかは本質的ではないと思っている。一方で、砧教会から排斥されている状態の中で、金井美彦氏の祝祷は呪いでしか無い。一度だけ受けた聖餐は苦い思い出となり、昨年のクリスマス礼拝では耐えられずに聖餐式の時に退席した。誰が司式をするかは本質的ではない。どの教会のどの集会にもイエスはいるのだ。牧師が腐っていてもそれだけで終わるわけではない。でも、組織が腐敗すればやがて信用を失う。人が来なくなれば教会も破産する。誰一人来なくなった教会にもイエスはいて泣いているようなイメージを私はもっている。できれば道は正されたほうが良いだろう。

ちなみにヨハネ伝だけに現れるニコデモという人物は、ファリサイ派で最高法院の議員であったとされている。言ってみれば、体制側の大物だ。かなり誠実な人という印象がある。福音のヒント(1)にはニコデモは理解できなかったと書かれているが、正教会の伝承では後にキリスト教徒になったらしい。彼が実在したかはわからないが、彼に限らずファリサイ派の人の中にイエスと謙虚な気持ちで向かい合った人がいたのは恐らく間違いないだろう。党派的ではなく、自分の頭で考える人は存在する。理性的な態度である。理性的な態度をとることと信仰の関係は複雑でもあり単純でもある。

※冒頭の写真は、Wikimediaから引用したHenry Ossawa Tanner: Nicodemus