新生活174週目 - 「ガリラヤで伝道を始める~四人の漁師を弟子にする」

 今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第3主日 (2024/1/21 マルコ1章14-20節)」。マタイ伝4章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 マルコ1・14-20

 14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
 16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスの公生涯が始まる。英語版WikipediaのJohn the Baptistは非常に詳しく分析されていて、特に4福音書とヨセフスのユダヤ古代史の比較検討は興味深い。いずれの文献でもヨハネの投獄に言及しているので、ヨハネの逮捕がイエスの独立した活動に繋がったと考えるのは妥当だと思う。もちろんヨハネの逮捕と無関係に時が満ちて活動を開始したと考えることもできる。ヨハネ伝とは異なり、ガリラヤ伝道の過程で四人の漁師を弟子にしたと書かれていて、ヨハネは最後に出てくる。ヨハネ伝では、ヨハネがイエスを選んだように読めるが、マルコ伝ではイエスが弟子を選んでいる。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、ヨハネ教団の流れを汲みつつ一歩踏み込んでいるようにも読める。

恐らくイエスの福音伝道はシナゴーグでの登壇で行われたものだろう。シナゴーグで登壇できるということは、ユダヤ教教師として適格性が認められていたということになる。洗礼者ヨハネの弟子であったことも有利に働いたのではないかと思う。その頃の登壇での説教が高く評価され、その噂から多くの講演依頼が来たのだろう。カファルナウム/カペナウムは交通の要衝であり外国人も出入りし、経済的にも一定の大きさがあったと思われる。ガリラヤのユダヤ人は地元の民ではあるが、ローマ、ギリシャのコスモポリタンのような力はなく自治機能も限定的だった。虐げられた感が強いとナショナリズムは力を持ちやすい。メシア待望論が力を持つのは不思議なことではない。洗礼者ヨハネが立つことを求める空気もあっただろうし、ヨハネ逮捕後は、その弟子の中から次のヨハネが出てくるのを期待する声もあっただろう。イエスはその候補の一人であったと見て間違いないと思う。

イエスの説教には力があり、(旧約)聖書の斬新な解釈を聞き、これまでにないリーダーだと感じた人は増えていったのだろう。

四人の漁師もシナゴーグでのイエスの説教を何度も聞いていたのだろう。そして、説教者としての役割だけではなく、新たな集団を形成する意思が示されたので、彼らは革命集団の初期メンバーとして参加する決断をしたのだろうと私は考えている。

新興宗教も革命運動も若くて有能な人々を引き付けて集団が形成されるようになるとはずみがつく。最近であっても、オウム真理教、その昔の赤軍派などもエリートを強く惹きつけた。教養もあり、そのままの道を歩めば一定の成功が期待できるような人が、その時期の常識とは違う道を選ぶことがある。そこに真理を見たのだろう。しかし、変化は簡単には起きない。一代で成果が出るような短期的な活動は消えるのも早い。イエスに従った人々も、イエスが生きている間に世界が変わるのではないかと期待していたとしか思えない。いずれにしても、イエスを中心とする活動家集団は立ち上がり始めた。

活動期間は長くないが、資金は必要だったはずで、持ちよりもあれば何らかの収益活動もあっただろう。弟子の中にも自分の財布に金をいれる誘惑に勝てなかった人もいたかもしれない。この四人はイエスの復活まで残ったのだろうが、有力な弟子でも途中で離れていった人もいるだろう。2000年経過しても神の国が目に見える形で来ていないこと、なのに、彼らの活動が今も継続していることを知ったら、彼らはどういう風に思うだろうか。

現代に生きる私達にとって、信仰告白を行って教会に所属するというのは当時の四人との共通点もあるがかなり違う。今は、新興宗教のようなリスクは大きくない。神の国を準備するための動きにも2000年の歴史があって、様々な軌道修正が行われてきている。今の時代は人権を中心に置く思想が強くなっている。一方で、利益誘導を求める誘惑からは逃れることができず、独裁者であっても強いリーダーを待望する動きが止まらない。言い換えればカルト集団の勢いが止まらない。

イエスの集団もカルト化の危機に面していただろうが、彼は扇動に走らず、権力に諂うこともしなかった。やれば、状況を変えることができたかもしれないが、内部にも断絶が生じてやがて崩壊しただろう。最後まで守るべきところを守り、残った弟子たちの活動とパウロの回心で世代を越えた活動に変わった。今の私達は、その活動に参加していることになる。

どの時代にもまがい物、破綻に導く扇動者は現れる。(ミニ)メシア待望論に堕ちることなく、真実を追求しなければいけない。右往左往していても、神の国は近づいていると私は信じている。

※画像はWikimedia CommonsのDomenico Ghirlandaio: Calling of the First Apostles。実際のシーンはどうだったのだろうか。群衆がイエスの一挙手一投足に注目していた時期ではなかったと私は思う。あまりにもイエスを偉大に書き上げるのはどうかと思う。