今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第1主日(2023/12/3 マルコ13章33-37節)」。見出しは32節からでBiblehubではマタイ伝24:36、33節からルカ伝12:40と21:36が関連付けられている。福音のヒント(3)でも「マタイ、マルコ、ルカで少しずつ異なっています」と書かれている。私は、必ずしも平行箇所とは言えないのではないかと考えている。
福音朗読 マルコ13・33-37
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕33「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
人間は、ずっと緊張し続けていることはできない。もちろん、眠らずには生きられない。だから、常に目を覚ましていることはできない。
もう少し、この箇所を読み込むと「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」とある。役割、当番が当たっている時に気を抜くなとも読めるし、もっとも身近な弟子たちには、集団として油断しないように監督する役割があなた方にあると言っているように読める。イエスに起源を置く教会について書いているようにも読めるのである。
現実を振り返ると、キリスト教会は何度も腐った。権力との結託はあったし、異国で福音を伝えたあとに略奪する権力者が現れるパターンもあった。ただ、救いだと思うのは、宗教改革を一例とするが、教会が腐ったときには腐ったままではいけないと声を上げる者が現れ、教会員を覚醒させてきた。ルターの宗教改革で興味深いのは、ルターは分派を立ち上げる気持ちがあったのではなく、正統な系譜であるカトリックの覚醒を願ったところにある。結果的に分裂は起こってしまったが、その結果カトリックにも緊張感が生まれ、現在も存続している。結果的にはルターの思いは通じたと言えるのかも知れない。
いつ家の主人が帰って来るのか分からないという話は、私は、常に見られていると取ったほうが良いと思う。権力は遅かれ早かれ必ず腐る。しかし、腐り切る前に自浄作用が働けばそれで良いのだろう。イエスは時に荒れるが本質的に忍耐強い。見捨てない。
教会という器だけではなく、地球という器の中で私達は生きている。気がつけば、自分たちでその器を破壊してしまいかねないほど、生活の向上に向けて走ってきてしまった。格差はあるが、それでも決して私はイエスの時代より世の中が悪くなっているとは思わない。暴走があれば、かならず警告する人が現れる。イエスの目を覚ましていなさいというメッセージは荒野で呼ばわる者の声を聞けということだろう。権力の腐敗は、概ね気がつくことのできる人が現れるのだが、中々勝ち馬に乗りたいという欲望から自由になれないのである。
※冒頭の写真はザグレブの聖マルコ教会。クロアチアにもエストニアにも民族間の対立は残っている。いつの時代にも優生思想で煽るものは現れるが、多様性が十分に高まれば機能しなくなるだろう。まずは移動の自由があまねく実現できることを期待したい。