今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「受難の主日 (2023/4/2 マタイ27章11-54節)」。受難週だ。ヨハネ伝を含めこの箇所のほとんどの部分は並行箇所がある。52−53節には並行箇所が見当たらない。改めて見てみると、ヘロデの尋問の記事はルカ伝のみに出てくる。
福音朗読 マタイ27・11-54
11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
福音のヒント(1)には「マタイ福音書の受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、それにいくつかの独自の伝承を加えています」とある。また「裁判からは「イエスがなぜ死刑にならなければならなかったか」は見えてきません」と書かれている。現代の感性で当時何があったのかを想像するのは無理があるが、感覚的には内乱罪に相当するのだろうと思う。宮清めは破壊行為だったかも知れないので、逮捕に適切性はあったかもしれない。イエスの教えは明らかに既存秩序への挑戦となっているので、かなり危機的な状況にあったのは容易に想像できる。先週NHKの「スクープ映像はこうして作られた」で天安門事件の話が出ていたが、イエスに従った人たちはあのデモの学生と同様の民主化革命勢力だったと考えることもできると思う。保守派は何としてもイエスの人気を抑え込みたかっただろう。そして、短期的に見れば体制維持に成功した。
イエスはなぜ自分を救う選択をしなかったのか。それは神が許さなかったのだろうか。それはわからないが、もしイエスがスーパーパワーで自分を救ったら、彼は偶像になっただろう。イエスの基本姿勢は諦めずに命の道を進めというものだったと思うが、もし彼が自分を救ったら、完全に民はイエスに依存するようになってしまうだろう。一度奇跡を見ると何度でも求めてしまうようになる。革命は成功するかも知れないが、恐らく時代が変わることはなかっただろう。結局「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と話しながらも、イエスは人間として生ききって死んだ。もし、自分を救う力をもっていたとしたら驚異的な忍耐力だ。しかし、宗教的な視点で見れば、彼が人間として死ぬことで時代は変わった。スーパーパワーを利用してもしなくても彼の教えは残る。しかし、彼が死ねば、残されたものは自分で立たなければならない。普通なら、リーダーが死んでしばらく経過すれば志は失われなくても弱っていく。保守派は勝利を確信しただろう。
磔の時には、日食も起きたようだし「52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のような奇跡的な現象も起きたのかも知れない。攻める側に立ってしまった人たちは、何か間違ったことをしてしまったかもしれないと感じたかも知れないが、事は終わったと考えなかった人は恐らくいなかっただろう。私は「本当に、この人は神の子だった」と言った人は実在して傍観者だったのだろうと思う。弟子は、ショックが大きくて神の子だと思っていてもそんな外側から見た視点は持てなかっただろうし、自分の意思で迫害側に立った人は自分が神の子を殺す側に立ったとは考えなかっただろうし、そもそもイエスは死んだのだから神の子であるわけがないと考えただろう。俺の手は汚れていないとその時点では思っていたはずだ。
権力側にも、アリマタヤのヨセフのようにイエスを殺すべきではないと考えていた人はいただろう。既に保守派の扇動で風が吹いてしまっている状態で、そういう人は傍観者になる以外の選択肢はない。煽られても乗らなかった人もいるだろうが、現実的にはやれることは何もない。
現代でも権力側は強い。冷静に考えればどう考えても筋が通らない事を通そうとするし、強い姿勢を支持する声は大きい。勝つ側に立ちたいという誘惑に抗うことは難しいし、自分自身が責任を問われるような事態でなければゲームのバクチと変わらない。でも、自由を求める心を抑え込み続けることはできたことはない。権力側の人間がこの事件を読めば悪夢なのだが、自分は例外と考えるのが世の常なのだと思う。しかし、例外などない。
イエスは死んだ。しかし、死んだが復活して死が終わりを意味しない新たな時代を招いた。同時に、既に人間イエスは死んでしまってこの世に人間のまま居続けているわけではない。だから、イエスの教えが届いた人は自分の足で立たなければいけない。一人では立ち行かないので教会を作った。集団を形成すること自身には問題はないが、集団はしばしば腐る。教会がいかに有用だったとしても、結局は個々人が自分の足で立たなければいけない。賢人に聞くのは良いことだと思うが、権威に目が眩んではいけない。そして、今も復活のイエスは時として動く。目を覚ましていなければいけないのだと思う。
自分は、どう考えても群衆の方にいる。いろいろなところでおかしいと思うことには異を唱えるが、実際には傍観者と変わらない。それでもやるべきことは真実の追求であり、専制と隷従に抵抗することだと思う。同時に、自分が間違いを犯す存在であることを忘れるわけにはいかない。それでも、一人ひとり自分の道を歩み、自分の道を歩もうとする他人を尊重しないわけにはいかないと思うのである。
※画像はWikimediaのMunkacsy - Christ in front of Pilateから引用させていただいた。