ちゃんとした会社

人によって、考え方は様々だと思うが、企業の会社概要やIR文書、中期計画などの文書を読んでいると、盛っているなと思うことが少なくない。自分がそういう事に関わっていた時も、どう表現すれば株主などに響くだろうかと考えなかったと言えば嘘になる。しかし、私は正直な表明が投資家に届く社会になった方が将来は明るくなると信じている。化粧をすることで、頑張れるのも否定しないが、ずっとは続かない。

「ちゃんとした会社」って結構良いと思う。言い換えれば、正直な会社ということだ。

良いのだけれど、正直な会社あるいは正直な組織であることは実は結構難しい。自分、あるいは自社は誠実だと心から思っている人が多くても、必ず隠し事は残る。取引先との関係性から内緒にしなければいけないことはある。内緒にしなければならない事だけであれば良いかも知れないが、そこに罠がある。本来やってはいけないことがあるのを隠してはいけないのだが、それを隠さないと自社の利益が損なわれると思えば怯む。

怯まなくて良くなるためには、依存性を下げなければいけない。

かつて勤務していた会社には「キークライアント」という言葉があった。上得意先といっても良い。幸いなことに私が知る範囲では、キークライアントは極めて「ちゃんとした会社」だった。社員に求められる倫理基準は明らかに自社の基準を上回っていた。例えば、酒のんで車に乗ったら事故がなくてもクビとか、今では驚かないが、その話を聞いた時は驚いた。某金融機関のディスクロージャー基準もWebで記事を準備するのに事前準備ができないのに不満を感じたが、今であれば当たり前のことだ。振り返れば、インサイダー取引の誘惑にさらされないで済んだということになる。

「ちゃんとした会社」には、本物の強さが必要だ。本物の強さは他人の口を封じる力ではない。他社に依存しないで存続できる能力であり、同時に他社が自社に過度の従属があってもつけこまない倫理観がなければいけない。

こういう分野では、技術力とか営業力だけでは足りなくて、経営者の人間力が問われる。その能力は独裁者と紙一重なのだ。この人なら大丈夫と思っても、時間が経過すればまず間違いなく裏切られる。個人差はあるが、一定の時間が経過すれば、必ず腐敗する。例外はない。リーダーは、自分は例外だと思ってはいけないのだが、まず負ける。だから、早めに制度を作って、それを強制しなければいけない。強制するのも簡単ではない。

国であれば憲法、キリスト教会であれば教憲教規がそれに当たる。私はそれを破っても良いと考えたらその人を権力の座から引き下ろさなければいけないと思っている。それを許せば破綻が待っているのは歴史が証明している。この文を書くきっかけになった会社はリスクはゼロではないもののほぼゼロだと思うが、砧教会は明らかに生存危機水準にある。勢いのある時には簡単なことも、弱ってくると何倍も何千倍も難しくなる。リーダー候補の質も下がる。その質の低下を指摘されると逆ギレするほど下がってしまうのだ。生まれ変わりが必要になる。年長者は誘導してはいけないが、それは本当に難しい。気がつくことが容易でないからだ。

人は一人で行きているわけではない。組織あるいは共同体は力を引き出すことができると同時に破滅させることがあることも意識しなければいけない。

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