今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第7主日 (2023/2/19 マタイ5章38‐48節)」。ルカ伝6章に並行箇所がある。
福音朗読 マタイ5・38-48
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「目には目を、歯には歯を」という掟は直感的には合理的に感じる。やられたらやり返すのは当たり前のことに思える。だから、子供の頃にこのイエスの言葉に接した時はまず違和感を感じた。え、何で?という気持ちになった。福音のヒント(1)にある「むしろ同じ害を与える以上の過剰な復讐を禁じている」という解釈には納得感がある。エスカレートさせないルール設定は合理的だと思う。ただ、ウクライナ戦争を目の当たりにすれば、やられっぱなしで済ませるわけにはいかないだろうと思う。キーウにミサイルが打ち込まれたら、能力があるならモスクワに打ち返したって良いじゃないかと思うのは異常なことだとは思わない。ただ、そういう応酬がさらなる悲惨を生むことはちょっと考えただけでもわかる。だから、侵略が始まった時は、とにかく逃げればよいのにと思っていた。ただ、そこに住む人が逃げたくない、戦うと考えるのであればそれを止めることはできない。一度は逃げても、やはり戻ってきて戦う人もいる。戦いの悲惨さがわからないわけがなく、覚悟して戦っている。力に頼って誰かを不幸な状況に追い込む人は何とか止めたいが、現実には簡単に止めることはできない。
「悪人に手向かってはならない」は理不尽に感じる。
前回と同じで、〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕を頭において読むと、外の人と争ってはいけないと読める。ひとりひとりの弟子は必ず神が見ていて何があっても救われるから襲われても愛を持って対応せよと言われればそうかなと思う。自分が持っているものの範囲であればよいが、他人に被害を与えるような行為を強要されたら受けるわけにはいかない。改めて、読み直すと自分がコントロールできることにしか触れていない。ルカ伝では「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と書かれている。一人で、この状況を貫けば、やがて野垂れ死ぬことになる。誰かが、欠乏を補わなければいけない。助け合って、福音を伝え続ける内にそれは悪いことに加担するより善意を貫く集団に加わりたいと考える人が増えていったのだろう。
一方で、権力に執着する人、あるいは集団は無くならない。大量の命が失われることがわかっていても戦争を続けてしまう人は実在する。現実は厳しい。何か起きてしまってから対応するのは非常に難しい。しょうがないから戦うしか無いこともあるだろう。
信仰告白して教会に属するということは、弟子たちのコミュニティに入るということなのだが、それが信者と信者でないものを分けて内側と外側を作り出してしまうと、差別の源泉になってしまう。組織化された集団には権力が生まれる。権力に執着する人が権力を握ると分断が起きる。隣人は権力に従う人のことを指すようになり、従わない人を敵とすることになってしまう。
福音のヒント(4)で、45節を引用して神の公平性に触れている。そこに着目すれば「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」は、関係性の距離に関わらず公平に接しなさいというメッセージに聞こえてくる。
信者であろうが、なかろうが、権力者であろうが、なかろうが、公平に接するように努めなさいという教えと取って良いだろう。好き嫌いは無くならないが公平を追求することはできる。公平性を向上させるためにはそれを維持できる社会あるいは制度を作り出していくしか無い。社会制度は宗教と結びつけてしまうと本質的に差別の構造を生む。愛が機能する社会はおかれている状況に関わらず公平に遇されるものでなければいけない。
事件や戦争が起きてしまえば、問題を解決するためにやむを得ず力を使わなければいけないが、より重要なのは日々の日常の中で、丁寧に丁寧に公平のレベルを上げていくことなのだと思う。小さな差別や小さな専制を正していくことが積み重なって平和を作り上げていくことになる。
ウクライナ内部では、EUの外圧もあって汚職撲滅のための粛清が続いている。ロシアによる侵攻がなければ遅々として進まなかった改革が一気に進んでいる。成功できるかは予断を許さないが、長い目で見れば社会は良い方向に動いていくだろう。ただ、ソ連が崩壊した時に、これで世界が平和になると期待した人は多かったが、現実は甘くなかったことを忘れてはいけない。とは言え、一人ひとりができることは、不公平に声を上げ続けることだろう。ひとりひとりの声は小さくて無力に見えても、声はやがて届く。声を弾圧するものに権力を与えてはいけない。「悪人に手向かってはならない」は生き残るためには守れないことはあるけれど、日常的に完全な者になるための努力をすることはできる。武力に頼ることなく全ての人が幸せになれる社会を作り上げていくことが求められている。