エレミヤ書20章 「エレミヤの告白」

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今日の砧教会の聖書箇所はエレミヤ書20:7-18だった。説教者が代表を勤める砧教会役員会は組織決定として、真実の解明を求める声に対応すること無く、私の排除を2023年1月31日付書面で通告してきた。そういう対応をしている組織はそのままならやがて命運が尽きるだろう。私は預言者ではないが、真理を追求するものとして指導部を糾弾し続けているから、エレミヤの嘆きは他人事とは思えない。

7 主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
9 主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
10 わたしには聞こえています
多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
11 しかし主は、恐るべき勇士として
わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく
甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない
とこしえの恥辱である。
12 万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め
見抜かれる方よ。わたしに見させてください
あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け
お任せします。

現実には「わたしの味方だった者」全員がさじを投げたわけはないだろう。そうなら、エレミヤ書は存在していない。エレミヤはイスラエルを救うことはできなかったが、その記録は現代にも一定の影響を及ぼし続けている。

ユダヤ教の人々がイスラエルの独立を望むのはちっともおかしいことだとは思わないが、世界の支配者になろうとしたり、ユダヤ教に反する人々を弾圧しようとしたりすれば長期的持続性はないだろう。エレミヤはある意味で愛国心を煽っているが、もっとその向こうを伝えようとしていたのかも知れない。残念ながら、私には読み取れない。

権力の集中は結局は組織を破綻させてしまうのを歴史は証明している。民は王を望んではいけない。

砧教会でもやがて指導部の人は死んでいなくなる。牧師はいつかは任を解かれる。いなくなることがわかっている人間に過度に依存することのない真実が守られる制度作りを行いつつ、自分たちが死んだ後の未来を考えた方が良いだろう。構成員はほとんどが老人だから、自分たちのことばかりを考えていたら、教会が存続できるわけがない。

エレミヤはどうすれば良かったのだろうか。まあ、何をやっても流れは変えられなかっただろう。しかし、彼の時代から2600年を経て、人類も少しは学べたのではないだろうか。つい、ショートカットの罠に堕ちてしまうのはいつの時代でも変わらないし、権力の維持あるいは快楽の獲得のために真実を劣後させる人はいつの時代にもいる。そういうことが起きないように制度は高まってきたと思うけれど、同時に安倍のような制度や人心の破壊者も世界中で繰り返し現れる。一人ひとりの力は弱くても、事実を軽んずる行為にはNoの声を上げ続けなければいけないのだと思っている。多様性を許容できるかどうかは一つの重要な指標となるだろう。

少なくとも、排除で問題をもみ消そうとする砧教会の将来は暗い。でも、あきらめなければ未来はきっと変えられる。真実を大事にしてほしいと心から願っている。残念ながら、今の砧教会役員会は私にとっては倒すべき敵である。真実を追求する道を邪魔する者が牧師というのは笑えない事態である。やがて皆死んでいなくなるが、皆が生きている間に解決できたほうが良い。誰かが死んでしまってから過ちに気がついてももう謝ることはできないし、許しを請うこともできない。皆が生きている間に決着をつけたい。

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