新生活124週目 - 「地の塩、世の光」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第5主日 (2023/2/5 マタイ5章13-16節)」。ルカ伝の並行箇所は14:34-35と短く、世の光の記述はない。

福音朗読 マタイ5・13-16

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

最近、教会から排除されているので、福音のヒント(1)の「いてもいなくてもいいと思われていたような人々」という言葉が刺さる。でも、本当に「この言葉は信じられないような言葉だったにちがいありません」というのは事実だったのだろうかという疑問はある。会社人生で偉い人の時期を過ごしていた時は、街にいる人を「無学な普通の人」と見下す側にいたと反省している。もちろん、そんな上から目線の自覚はなく、自分は他人と比較すれば正しく生きている方だと思っていた。多分、今もその幻想から自由になれていない。でも、理解できないことは理解できないのだ。極めて罪深いと思う。会社という看板を失ってみると、どれだけ自分が無力なのかに気が付かされるが、だからといって自分の視野が大して広がるわけではない。正に「己が目より梁を取り除け」状態である。でも自分では取り除くことはできない。イエスの警告はもっともだが無理ゲーでもある。ただ、視点が変われば逆に偉い人がどれだけ物が見えていないか気がつくことができる。牧師や古参役員の腐臭を感じ取ることができたりするが、恐らく本人は自分が腐臭を発していることに気がつくことができない。多分、それが現実なのだ。現実は厳しい。

虐げられている人だけが見える視点はある。だから、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」はむしろ現実だろう。逆に虐げられている人には見えていない視点もある。誰ひとりとして全能ではない。だから、牧師や神父が見えている視点を説明するのは無意味ではない。それで良いのだと思う。自分が見えている世界は狭い。腐った牧師にも学ぶことはできる。しかし、腐りきったら役に立たない。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」ももう一つの現実だろう。金井美彦氏にはその前に踏みとどまってほしいと思うのが私の正直な気持ちだ。随分長く争ってきたので、もうだめかもしれないと思っているが、まだ希望を失っているわけではない。滅んでほしいとは思っていない。

「「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが知らない」そういうメッセージ」が日本基督教団砧教会主任担任教師の金井美彦氏及び砧教会役員会の名称で私に向かって発せられているのは事実である。砧教会を破壊しつつあるのは、もうひとりの被告の慢心のせいだと思っている。そして、それは彼の信じる善意だからたちが悪い。私の善意も、本物かどうかは時間の洗礼を待たなければわからない。今言えるのは、否定されていない証拠が揃っていることだけだ。

一日も早い正常化を願っている。祈っている。牧師は甘言に乗ったら独裁者の罠に堕ちて終わる。終わらないでほしいと願う。祈る。

福音のヒントの最後の言葉「では、わたしたちはどうやってイエスの福音を誰かに伝えることができるでしょうか」は重い。

※画像はWikimediaから引用した死海の塩