今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「神の母聖マリア (2023/1/1 ルカ2章16-21節)」。箇所は先週の続き。
福音朗読 ルカによる福音(ルカ2・16-21)
16〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
福音のヒントの始まりに「1月1日は「神の母聖マリア」の祭日」と書かれている。私は、どうもマリアの神聖性には抵抗があるのだが、「世界平和の日」は歓迎したい。もちろん、ウクライナだけを特別扱いしてはいけないと思うのだが、私にとってはウクライナは韓国と同じ程度の距離感だ。かつて板門店に行った時には、まだ戦争は終わっていないことをそれほど強く感じられなかった。2021年にエストニアのナルバに行ったときも、ロシアの驚異は感じたものの戦争の危機は感じなかった。2019年にはミンスクに行ったし、エストニアのベンチャーではウクライナ出身の人の話をよく耳にする。原子力技術、航空機技術でもソ連時代に大きく活躍した。私が北欧に接したのはNokiaを起点としたフィンランドだったが、その後いろいろ接点が増える内にウクライナは気になる国として自分の心の中で育っていった。だから、ウクライナ侵攻には大きなショックを受けた。繰り返すが、ウクライナだけを特別扱いしてはいけないが、ぜひウクライナに平和が訪れることを祈る。このブログを書きながら祈る。
イエスが生まれた時期は、一時的にユダヤが独立していた頃。まだローマ属州になる前のハスモン朝の記憶が残っていただろう。弱小国で、独立の維持も危ぶまれていただろうし、内政も安定してはいなかった。国家は安心して頼れる状態ではなく、民衆は不安を抱えながら生活していたのだと思う。現代であれば、ロシアに属国扱いされているベラルーシやウクライナのような状態にある程度近い。ローマに歯向かえばひとたまりもないことは理解していて、かなりの暴君であったヘロデ大王の手腕に頼っていた部分はあったと想像できる。赤子をもつ親はどうやって生き抜くか、育てるか必死で考えていただろう。それでも戦時下ではなかったから、平和への願いは第一優先ではなかったのではなかろうか。
イエスの親夫婦にとって何が優先課題だったかはわからないが、ルカ伝の記述が事実であれば、この家族をこれからどうしていけばよいのかには不安があっただろうし、この先どう生きていくかが第一優先課題となっていたと考えるのが適当だと思う。現代的に解釈すると、処女降誕を是としたとしても、卵子がマリアのものだったかどうかもわからない。もし身に覚えがなかったとしたら生誕後にイエスを見た時の気持ちはどうだったのだろうか。不安は解消されて愛情に満ち溢れたのだろうか。
そのタイミングで羊飼いが幼子が救い主だと聞いたとして突然現れたらびっくりしただろう。マリアにとって、その経験は忘れられないものになったに違いない。
ヨセフはどうだったのだろうか。身に覚えがなかったら、仮に覚悟の同伴だったとしても複雑な気持ちだっただろう。さらに、何も知らないはずの羊飼いが現れたらAway感全開だったのではないだろうか。わけもわからない状態で、何かが起きている、巻き込まれていると感じたのではないかと思う。これからどうなるか不安を感じなかったわけがない。
果たして天使の存在は安心につながったのだろうか。羊飼いの来訪は喜びにつながっただろうか。
十字架と復活のイエスを知っている人が聖書の記事を読めば、イエスの誕生を素直に喜べるが、現実がそんなに心温まるシーンだったとはとても考えられない。
この物語は後世の創作で、実際は劇的なことは、何もなかった可能性が高いと私は考えているが、本当のことは2023年1月1日の時点では分かっていない。分かっていないから想像できるところもあるが、できれば事実がどうだったかは知りたいと思う。
一方、イエスの誕生がなければ今の形の世界は存在しない。別の道がより悪いものだったのか、より良いものだったのかはわからないが、私は2000年強前にイエスが生まれたことで良い方向に世界が回り始めたと思っている。「神の母聖マリア」の祭日を「世界平和の日」とすることで平和が近づくのであれば、一時はマリアに平和の夢を投影しても良いだろう。現実には、権力が集中しないシステムを作り上げていくのが肝要だと思っている。死んだらどこに行くかはわからないが、虐げられる人を極小化していくことはできる。少なくとも、支配・被支配の関係を崩しながら安全を高めていかなければいけないのだと思う。
※画像は、Henry Ossawa Tanner - Angels Appearing before the Shepherds。1910年は、航空機が実用化され始めた頃。従来の絵が見上げる構図だったのが、見下ろす構図で書かれているのが新鮮。地球が惑星であることを知る前は、空の上の上の方に天国があるというイメージを信じることができただろう。天使に羽があって天国と地上を行き来できる存在だというイメージはこの絵にも残っているが、天使が透き通っているのはもう空の上に天国があるわけではない、天国は物理的には存在しないという現実がにじみ出ているように思う。死んだらどうなるのだろうという問いの答えは見つかってはいない。