新生活114週目 - 「目を覚ましていなさい」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第1主日 (2022/11/27 マタイ24章37-44節)」。A年の初日。各共観福音書に並行箇所がある。ただ、ルカ伝は短くて、少し印象が違う。

福音朗読 マタイ24・37-44

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕37「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

この前の36節は『「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。』で、なぜ37節から始まるのかは分からない。

福音のヒントの冒頭部で「待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります」とある。暦のことを考えると、春分、秋分、夏至、冬至は科学的で祭日の扱いにするか否かは別に基準日として把握することができる。一方、1月1日といった一年の区切りをどこに置くかは恣意的で、かつてネパールに行った時に複数の暦があるのに驚いた。広場で新年が祝われていたのだが、民族によって年の区切りが違い、祝日も違う。日本でも欧米諸国と同じく1月1日を区切りとしているが、1873年にグレゴリオ暦に改暦されているので、約150年という期間の習慣、制度である。カトリックの暦は待降節が1年の始まりとなるが、それが1月1日になるわけではない。一週間という区切りも7日でなければいけないわけではない。太陽で暦を見るか月で暦を見るかは少し考えてみると中々難題で、潮の満ち引きが生活に大きく影響する漁師の視点で見れば月の位置関係を基準とすることに一定の合理性はあるが、春夏秋冬も大きな影響があるからどちらも無視できない。1日の始まりも日没を基準とする考えもあるが、これだと緯度によって日が変わるタイミングが異なるようになってしまう。取引ルールを定める時に基準が一致していないとトラブルの原因になる。「その日、その時は、だれも知らない」は、おそらくユダヤ人の人達にとっての、地域の時だったのだろうが、現代は地球における時という解釈となる。もし月や火星に定住する人が出てくれば、また共通に取り扱える日時の考え方は変わるだろう。この世の終わりという言葉も、国の崩壊や地域の崩壊を意味していたかも知れない。そういう意味では、ユダヤ戦争でユダヤは終わったのだがその時にはイエスが再来することはなかった。地球の終わりは宇宙の終わりを意味するわけではない。どこに視点を置くかによって「世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う」が意味することは変わる。

この世の終わりは何を意味するのか、あるいはイエスが「人の子は思いがけない時に来る」と言った時に、それにどういう意味を込めたのはわからない。共観福音書に並行箇所があるということは、このような発言はあったのだろうと思わざるを得ないが、現代の地球視点で見ると、どうもしっくりこない。地動説以降の世界観で、自分たちがいるのは世界の中心ではないという考えが人の心に入った。それまでは、ローマが世界の中心だとかあるいはエルサレムが中心だと考え、覇権争いを繰り広げてきたが、視点を変えてみれば太陽系の周辺のごく小さい場所の話に過ぎないことが認知されてしまった。世界の概念が変わったのである。世界の概念が変わった後に生きている人には、当時の人と同じように言葉を理解することはできない。

福音のヒント(1)にあるように「人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます」と取るのはかなり難しい。裁きの時が何を意味するのかを現代の世界観で見ると容易には理解できない。地球の終わりがあったとしてもそれはこの世の終わりではない。

一方で、一人ひとりには死は必ずやってくる。それはいつかは分からない。その時何が起きるのかは誰も知らない。そこにさばきがあるのかも知れないし、なにもないのかも知れない。復活を信じるということは、死は終わりではなかったという現実を私達に突きつけることになる。この世に生きている人間として影響を及ぼすことができるのは、生きている間だけという極めて短い期間だけである。この短い期間を愛に生きるというのが目を覚ましているということではないだろうか。

科学的な事実は解明が進んで、いろいろなことがわかるようになった。今後も、さらにわかることは増えるだろう。命のメカニズムも、思考のメカニズムも解明は進むだろう。つまり、未来の予測精度が上がるということだ。どう行動すれば、どう影響を与えることができるかが分かってくる。人の心に影響を与える方法もわかるかも知れない。

自分の思いを通したいという思いと、その人が手に入れた力の大きさで社会に与える影響は変わる。現代であれば、イーロン・マスク氏がどう考えるかが社会を激震させ得るし、プーチン氏の考えが多くの人の命に影響を与える。命を救う影響を行使することもできる。

どんなに自分が無力で小さいものであっても生きている以上社会に影響を与えながら生きている。良いと思うことをするといっても自分の思いがずれていることもあるだろう。やはりキーとなるのは「愛を持って生きること」に尽きるのではないかと思う。愛は、事実をごまかすことによって失われてしまうが、悔い改めれば愛を持って生きることは誰にでもできる。

※画像は、昨年のタリンのクリスマスマーケット。今年はアドベント前に日本に戻ってしまったのでほぼ設営は終わっていたが、まだ開いていなかった。