新生活111週目 - 「復活についての問答」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第32主日 (2022/11/6 ルカ20章27-38節)」。並行箇所はマタイ伝22:23、マルコ伝12:18にある。他の福音書ではその後に「最も重要な掟」が続く箇所だ。

福音朗読 ルカ20・27-38

 27〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

復活を自分ごととして考えるとつい今の自分の形で復活することを想像してしまう。死んだ時の直前としてイメージすると、高齢で死んだらかなり不自由な状態での復活となり嫌な感じがするし、自分が良いと思っていた時の姿で戻るとしてもそれが究極の幸せとはとても思えない。この箇所を読むと、復活って何だ?と考えさせられる。復活のイエスに会った弟子はそれがイエスであることに最初は気づかない。弟子からしたら、復活のイエスに気が付けないことなど信じられない状況だろう。「めとることも嫁ぐこともない」は不思議な表現で、復活した人はもう人間ではないことがわかる。大きなヒントだと思う。復活は「生きている」という意味を問う。生きていたイエスの神は、生きていた弟子たちの神だろう。私の神でもある。生きていたイエスは復活の意味を知っていたのだろう。どのくらい知っていたかはわからないが、神によって生きていると言い切れるほどには理解していた。復活のイエスは命を失って完成した存在と言えるのかも知れない。

私は、この箇所を読むと、自分がどう生きるのか問われている気持ちになる。

福音のヒント(1)でサドカイ派の解説がある。神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループが事実であれば、その維持は決して楽ではなかったはずで、排他性が必要だったはずだ。復活があることを否定する立場を取っていたとすると、復活があるとする人を排斥するか、考えを変えてもらわなければならない。もちろん、面従腹背もあっただろう。復活があるかないかなどわかりようがない。わかりようがないものの是非を問うのは、踏み絵と変わらない。恐れによる支配となる。

イエスは、復活を否定するのはダメだとは言っていない。一方、正当性を主張して排他的な態度を取ることに対しては批判的だと思う。律法は残るが裁いてはいけないと説く。イエスの教えを念頭に旧約聖書を改めて読み直すと、正統性へのこだわりが目立つ。同時に、正統が非常に稀にしか機能せず、ほぼ実績を出さないこともわかる。考えてみれば、正統性を主張すれば排他的になり、厳格になればなるほどカルト化してしまう。間違えれば正統性を失うと考えると事実に基づく判断ができなくなってしまう。キリスト教会を含め全ての集団はその罠に多かれ少なかれ落ちてしまう。イエスは世界征服を目指してはいない。

福音のヒント(2)で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」という考え方に触れているが、私はそれは教えるべき教えではないと思っている。しかし、復活という事象はあると信じている。ひょっとすると、例外なく復活するのではないかとも考えている。ただ、それが何を意味しているかについては像を結んでいない。ただ、「生きている者の神」というイエスの言葉には強烈なインパクトを感じる。全ての生きている者の神で自分と考えが一致しない人であっても利害が対立していても同じ神によって生かされているという言葉を信じる。言い換えると、全ての生きている者は排除されてはいけないと思う。

復活した人は再び死なないと書かれているが、今のように生きているわけではない。今の自分の属性で何が残るのか興味がある。性や人種、年齢は意味を持たないだろう。いったい何が残るのだろうか。何も残らない気がする。生きている者の記憶に残るのかも知れない。

正直、良く分からないが、排斥のない全ての人の人権が拡大していくような社会の構築に向けてできることをしなさいとイエスに言われているように感じている。それは正統性の追求とは違う。権威など存在しないほうが良い。

※画像はティソのThe Pharisees and the Saduccees Come to Tempt Jesusでニューヨークのブルックリン美術館にある絵。パリサイ人とサドカイ人が題名に列記されていて、正統性を巡る論争の無意味さを想起させるものとなっている。その論争に勝とうが負けようが福祉が増大することはないだろう。個々人にはそれぞれ復活は意味を持つだろうが、普遍的で正統性のある価値観の固定は意味を持たず有用でもない。一人の人間としてイエスと向き合えば、全く違った関係が成立しただろう。