新生活109週目 - 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第30主日(2022/10/23 ルカ18章9-14節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。この箇所も印象的で、平行箇所がないことに驚いた。このブログシリーズを書くようになってから、毎週聖書箇所を調べるようになって、多くの気付きがある。

福音朗読 ルカ18・9-14

 9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ファリサイ派の人はうぬぼれているかも知れないし鼻につくところはあるかも知れないが立派な人なのだと思う。相当な努力をしていた人だろう。義とされなかったのは哀れに感じる。しかし、改めて考え直すと、義人と義人でない者の線を引いて差別するという過ちを犯していると言える。徴税人は同朋から税を集めてローマに収める仕事だから、こんなことをしていてよいのだろうかと思うことはあっただろう。だからといって、仕事は生活に結びついているし、いろいろな役割を担う人で社会は成り立っている。義人だけで社会は回らない。徴税人は旨味のある仕事で、正しいことだと思えなくてもやめられない仕事だったのかも知れない。自分は一級の市民(神の民)ではないが、つながっていることを許して下さいという祈りは心を揺さぶるものがある。

この箇所でも感じるが、ルカ伝のイエスは割と人を裁くたとえ話をする。生きていた人間イエスはどんな人だったのだろうかといろいろ想像してしまう。聖書には多くの訓話が掲載されているが、イエス自身は裁く人として書かれていないと思う。むしろどんな状態であっても受け入れて、接した人の心に愛の火が灯るのを待ち、応援してくれる人というイメージが強い。ルカ伝10章から今日の箇所まではほとんど平行箇所がなく、ルカ伝の著者がその教えを解釈して記したものではないかと思わされる。実際にイエスが言ったことを調べて書き出したという可能性もあるだろうが、どうもしっくりこない。

福音のヒント(1)で「正しい人」と「罪びと」という区分について述べられている。わかりやすく、違和感もない。イエス後は正しさの基準が転換した。福音のヒント(2)で他人との比較で考える考え方が否定されているとあるのは、転換後の価値観と見て良いだろう。しかし、現実の世界では他人と自分を比較して見なければ自分がどこにいて、どこに向かっているかを知ることはできない。ただ、違いから優劣にマッピングするか、違いは違いとして認識した上で、優劣にマッピングしないかは大転換だ。この考え方は現代のDiversity and Inclusionにつながっている。軸を決めて評価すれば、優劣は明らかになる。序列化は避けられない。序列化を否定しても現実は変わらない。しかし、軸は無数にある。ユダヤ教的な正しさを軸にして人間に優劣をつけるという価値観は否定される。しかし、否定しても正しさを軸に人間に序列をつけることはできる。

宗教的に考えると義とされる価値は極めて大きいが、私はイエスがそこにこだわっている気がしない。

このたとえのファリサイ派の人と徴税人のその後を想像すると、徴税人は何かできることを探しながら生き、ファリサイ派の人は今までと同じ善行を繰り返しつつ差別の世界を生きただろう。イエスが言う神の国は差別のない世界だったのではないかと私は思うのだ。そして、イエスの言葉はファリサイ派の人にも届くと思う。届けば行動が変わる。行動が変わる人が増えれば、虐げられる人は減るだろう。それは敵を倒せばより良い未来がやってくるという考え方とは対極にあるものだと思う。

※画像はWikimedia(File:Parable - The Pharisee and the Publican - Sir John Everett Millais - ABDAG004397.jpg)から引用させていただいた。スコットランドにあるらしい。