新生活108週目 - 「やもめと裁判官」のたとえ

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第29主日 (2022/10/16 ルカ18章1-8節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。

福音朗読 ルカ18・1-8

 1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

この箇所を読むとルカ伝11:8「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」を想起する。マタイ伝の山上の垂訓の並行箇所とする考えはあるが、ルカ伝はより処世訓的な匂いが強い。現実には「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」ということは起きる。まあ、周囲の人から見ても迷惑な話なのだが、公正な裁きを求める権利は当時も基本的人権の一つで、昔も今も弱いものの人権は軽んじられてきた。しかし、自分が正しいと信じているのであれば、周りがどう考えようと、主張しても良い。そして、裁判官は建前として守らなければいけない人権を自分が軽んじていることが公になって世論が動くと極めて具合が悪い。最初は、なんとかして黙らせようとするだろうが、黙らせることが無理と考えるようになれば問題に向かい合わないわけにはいかない。人間社会の現実をよく表していると思う。

11:8の方は、その友人は無理な願いを持ち込んでいる。箇所を読む限り正当性はないのだが、正当性がなかったとしても不快を避けるためだったら耐えられる範囲なら受け入れるという話だ。こちらの話もありそうな話で、人間社会の現実を表していると思うが、ちょっと変だ。正当性のある無しに限らず、欲しいものは求めてよいのだとイエスは言ったのだろうか?

改めて考えてみると、イエスは正当性のある無しに限らず、欲しいものは求めてよいのだと言った可能性はあると思う。病人や罪人のために来たという記述もあるが、罪人が救われたいと願うのは、イエスの教えに反しない。求めれば何でも叶うということはないが、何であれ願うのは自由だろう。そして、根底に父は必要なものはご存知だという信仰がある。信仰告白は、それを自ら表明する行為だ。ある意味では、自分の価値観への信頼を放棄することだし、自分が良いと思うことを追求して良いと考えていると表明することでもある。

私は、最初の部分の「気を落とさずに」という表現に引っかからなかったが、福音のヒント(1)では丁寧に取り上げられている。気を落とすということは諦めることでもあり、祈りの前にまず諦めてはいけないということだと私は取っている。

福音のヒント(4)で「選ばれた人たち」への言及があるが、私は選ばれる人と選ばれない人がいるという考え方にイエスが立っていたとはどうも思えないのだ。人は変わるし、聖人も罪を犯せば、罪人も善行を成す。自分は選ばれる人を目指すという姿勢は好ましいと思うが、イエスの教えはもっとカジュアルな感じがする。弱者でも自由を奪うものと戦って良い、罪人とみなされている人も自由を求めても良いと繰り返し述べており、他者から自由を奪うものになってはいけないと警告している。誰かが選ばれるか否かよりは、むしろ、御心にかなう行為か否かといった行動規範に言及している印象が強い。つまり、継続的な改善活動であって、その向こうの出口を説いている印象は薄い。そして、一点重要なのは、神は全てを見ているという警告だろう。しかし、それを恐れて行動を変えるというのはイエスの教えとは整合しない気がする。あくまで、自分の意思で信仰を告白し、よくよく考えながら、良いと思う道を歩めと説いているのだと思う。

宗教指導者であっても、自由を奪う側に立ってしまえば、それは良くない行動をとっていることになる。当時の律法学者や指導者の多くはちゃんとした人だったと思う。一部には権力を守るために事実を曲げるような人はいただろうが、そういう人だって、選ばれない人かどうかは分からない。言えるのは、事実を曲げるような事はやめなさいという教えを詭弁を弄してごまかすのではなく、謙虚に事実に向き合って悔い改めて好ましい行動を取ることが勧められているということだろう。

事実を曲げているとしか思えない砧教会執行部との戦いは依然として続いている。

※画像はThe Parable of the Unjust Judge 1628 Oil on oak panel, 89 x 74 cm Szépmûvészeti Múzeum, Budapestのページから引用させていただいたもの。ブダペストは一度だけ行ったことがあり、この博物館には行っていないが、直ぐ側の駅からスロバキアに向けて列車に乗った記憶がある。独仏とはかなり文化的な距離があるという印象を持った場所だ。画家はオランダの人。