寄留者、王権批判、申命記

今日の説教で、ゲールという単語が出た。寄留者を指す旧約聖書で頻出する単語らしいということが分かったので、ググってみたら、申命記におけるゲール (寄留の他国人) - COREという論文がヒットしたので読んでみたら引き込まれた。著者の加藤潔氏は既にお亡くなりになってるようで話を伺うチャンスがないのは残念に思う。論文のP8に「(19)ゲールは高くなり、イスラエルはゲールから借金をするようになる」と書かれている。申命記の該当箇所を読むと「主の御声に聞き従うならば」祝福されるが、従わなければ呪われるという構成となっていて、「あなたの中に寄留する者は徐々にあなたをしのぐようになり、あなたは次第に低落する。」と書かれている。

エレミアの活動期の話でもあり、申命記改革で神学的な正統性を一本化しようとしたが、イスラエルは独立を失いバビロン捕囚の時代を迎えた。創世記から申命記までのモーセ五書が文書化されたのはこの頃とされていて、出エジプト記と申命記の両方に十戒が出てきて内容に違いがある。出エジプト記が先にあって申命記が後にあると考えてしまうが、そういう単純なものではなく、「契約の書」、「申命記法典」、「神聖法典」の 相互的影響関係とその時代背景を読むと寄留者の話が社会的懸念事項となっていたことが推定されている。ついでに、その論文では王権批判に触れている。

旧約聖書で繰り返し出てくる寄留者の保護についての規定は、そんなものかと読みつつも不思議に思ってきた。パレスチナで暴れまわって先住民を蹂躙し、部族の時代から王の時代に進む様は暴力集団そのものである。神をかついだ俺様的な世界観で、武力をもって正統性を確立していく過程で、民が王を欲したことが書かれている。その一方で寄留者の保護が記されているのは変だ。

現実的な問題として、多様性が失われると社会は衰退する。異質な者の力を活かせなければ成長は止まる。

「主の御声に聞き従う」というのは王の言うことを聞くこととは違うというのが聖書の執筆者、編集者の視点なのだろう。現実には、国を守ることはできなかったが、聖書は残り2500年以上を経ても読まれている。不思議なことだが、ひょっとすると法律と権力を分離する考え方が生き残ったからなのではないかと感じなくもない。法の執行には力が必要で、国が機能しないと法の支配は実現しない。一方で権力者は法の縛りは邪魔でしょうがない。国という構造は内部に支配層と被支配層を生んでしまう。それは日本でも同じだし、宗教組織も変わらない。神学者は支配層におもねらずに「主の御声に聞き従う」ということは何かを追求するが、実際には矛盾の無いルールを成文化することはできない。

法の限界を愛で越えよというのが新約の教えだけれど、寄留者に自国民と同等な権利を与え、むしろ保護しようとする法制は旧約聖書で既に書かれている。法を機能させるためにはどうしても力が必要だが、「主の御声に聞き従う」ということは本質的にはナショナリズムでは実現できないことを分かっていたのではないだろうか。

加藤潔氏は「(ゲール保護関連法規定は)一見人道的理由と見られながら、利息禁止法、借金返済免除の法、近親者による土地買い戻しの法などは富の独占を禁止し、共同体全体の力を養うことを目指すものと考えられる」と書いている。人権問題が表に出てきている現代だからこそ持てる視点とも言えるだろうが、異質な者との適切な共存の道を模索していたと考えても良いのではないかと思った。

その上で、ただ法制度を進化させるだけは足りない。今日の善きサマリア人のたとえに関する説教でゲールという言葉が出てきたのは偶然ではないだろう。外キ協の活動に共感する人もそうでない人も共感しても活動に結びつかない人もいるだろうが、ゲールを意識せずに平和を向かえることはできないのは間違いないと思う。個人的には、移動の自由あるいは国際市民権の確立が先だと考えているが、足元で排斥が起きている現実に立ち向かう必要は感じている。

改めて超ななめ読みで申命記を見直したが、申命記の編著者が書いたモーセの頃の話であって実際に当時明確に規定されていたものとは差異があるだろうことがわかる。そういう前提で読み直し、既にキリストが現れた後である現代からの視点で申命記の編著者の意図を探るのは無駄なことではないだろう。