新生活97週目 - 「愚かな金持ち」のたとえ

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第18主日 (2022/7/31 ルカ12章13-21節)」。この箇所も平行箇所がない。

福音朗読 ルカ12・13-21

13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

16節からのたとえ話は分かりやすい。そして、多くの人が愚かな金持ちを目指す。私も例外ではない。今持っているものを数え、どの程度のゆとりがあるのかを考えるのは止められない。企業の経営の観点で言えば、資金繰りや将来予測はしないわけにはいかないし、投資をしなければ現状を維持することもできない。持たざる人から見れば、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と考えているように見えても、この「愚かな金持ち」は手を打たないわけにはいかない。何も手を打たなければ作物は腐って無駄になってしまうから、彼の選択肢はちっともおかしくない。しまっておけない分を困っている人に与えれば良いという考え方もあるだろうが、倉庫の建て替えは仕事を生むし、ちょっと蓄えができたら一休みしたいと考えるのもおかしなこととは思わない。本当にイエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と言ったのだろうか?

一方で「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」は納得感がある。自分の持ち物の中でいちばん大事なのは命なのは確かだが、自分の命より子供の命を優先する人もいれば、国や指導者のために命を捨てる人もいる。逆に貪欲は人の命を軽んじる。金に限らず権力獲得あるいは維持のためなら、他人の不幸は他人事になる。そんなことを気にしていたら、自分が転落してしまう。一度貪欲に踏み出してしまうとその道から抜け出すのは難しい。そして、すべての人がちょっとずつ道を外し、外したことを後悔して陽のあたる道を歩こうと決心する。この過程で、他人と比較して自分はそんなに悪くないと考える罠に嵌ることも少なくない。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」は人間の現実に即した忠告だと思う。しかし「人の命は財産によってどうすることもできないからである。」はちょっと取ってつけたような感じがする。

福音のヒント(3)にあるように人間の無力さや限界を知ることは大事なことだと思うが、私は限界に挑戦すべきだという考えに立つ。真理の追求は安易に抑制してはならないと思う。現代であれば、生命倫理の問題は大きなテーマだろう。様々な科学技術投資によって、技術がなければ救えなかった命が救われているのは事実である。研究者は直接生産活動に関わっているわけではないから、彼らが食べていく金は誰かが負担している。今は、元を辿れば投資家ということになるだろう。そして、開発された技術は金になり、時に投資額の何百倍、何千倍あるいはそれ以上の価値を持つ。投資した金持ちが得られた利潤を懐に入れるのはおかしなことではない。それで一休みして食べたり飲んだりしても何の問題も無いだろう。私は、それを貪欲とは思わない。

貪欲は、利潤を手に入れるために、あるいは投資を守るために、公正さを劣後させることだと思う。

薬の世界であれば、従来の薬を超える効果を出し副反応も出ない新薬が現れれば、古い技術の評価は無に帰す。一瞬で既得権益は失われ、その資産は新たな富を生み出さない。事実に反して新薬が世に出るのを妨害したり、新薬の権利を盗用などの手段で確保したりするのは貪欲のなせるわざといって良いだろう。薬の世界では、治験というルールを作ることで、事実を検証するシステムを作り上げてきたし、産業全般では独占禁止法が公正を確保するためのルールとして一定の範囲で機能してきた。政教分離原則で、資金供給力のある邪教が権力によって不公正に優遇されることを防いできた。真理を目指す宗教も既得権益の誘惑に抗えずに堕ちていく事例はいくらでもある。例外と言って良い組織などどこにも存在しない。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」は決して簡単なことではない。一度手にした安定は、それが一切不正に関わらずに手にしたものであっても失うのは苦しいことだからだ。そして、どれだけ努力しようが、運が伴わなければ成果は得られない。新型コロナが現れなければ、mRNAワクチンの発明が現在のような価値を持つことはなかっただろう。そして、次にそれを凌駕するものが現れるまでの一時的な成功に過ぎない。成功の渦中にある人達が貪欲の罠に堕ちないでいるのは容易なことではない。善意で誤ることもある。自分だけの力で「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」の教えを守ることはできない。どんなに善良な人でも、聖職者であっても例外はない。

事実を明らかにするだけでは人の心は動かないが、多くの人の心に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」という教えが根を張れば、リスクは減るだろう。愛とはそういうものだと思う。自分にできる小さなことから実践することで、きっとより良い未来に近づいていくと思う。そして、巨大な力であっても見過ごしにしてはいけないのだと思う。

新約の福音の本質に関わることだと思う。

※画像はwikimediaから引用させていただいたレンブラントの愚かな金持ち

ちなみに、13節に関しては、法的な権利はともかく、遺産は自分の手で作り上げた財ではない。感謝して受け取るのは自由だが、権利と考えてしまうとそれは貪欲への入口になり得る。兄弟が公正であるかどうかは関係ない。身近に不公正な人がいると自分も貪欲にはまるリスクは高くなる。自分にできることは、自分ができるだけ公正であろうと努力することだと思う。