新生活96週目 - 「祈るときには」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第17主日 (2022/7/24 ルカ11章1-13節)」。主の祈りはマルコ伝、ヨハネ伝には出てこない。また、日本基督教団の主の祈りとは若干相違がある(現在の教団のホームページでは主の祈りで検索しても出てこない)。福音のヒント(1)にもあるが、分かりやすい言葉とは言えない。私は毎日寝る前には2回主の祈りを祈る。一回目は言葉通りで、二回目はその日の自分の理解を言葉にしながら祈る。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今日の箇所との違いは、細かいものを除けば「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」の追記だろう。言い換える時には「権威と、権力と、経済力は本質的に神様によってもたらされるものです」と解釈することが多いが、最近はこの部分に疑問を感じている。王権神授説は権力の正当化のためのロジックで実態が無いと思っているし、権力や経済力は相対的なものだから、どちらかと言えば、この部分は教会組織が権威を確保するために追記したと考える方が納得感がある。教会、教団は人が集まって編成するものだから、かなり不確かなもので、神とつながっているということを拠り所にしないわけにはいかない。最後の部分を除くと、個として祈ることができるが、最後の部分は集団の中の個としてしか祈れない。本日の聖書箇所は現在の主の祈りを考える上で大きなヒントを与えてくれる。

福音朗読 ルカ11・1-13

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

「み名をあがめさせたまえ」と「御名が崇められますように」は前者は主体的だが、後者は願いだ。福音のヒント(2)ではこの名は呼び名でなくそのものの本質を表すとしているが、私は呼び名も表すと考えている。ヤハウェという発音を口にすることは禁忌とする考え方があり、本当にどういう音であったかはわからない。かつて文語訳ではエホバという読みが与えられていた。未信者、異教徒からすると名前のない神は理解し難い。信徒の立場に立つと、ヤハウェの名があまねくすべての人から崇められることは当然の願いとなる。ただし、ユダヤ教もイスラム教も同じ神を神とするので、その御名が崇められてもそれが一致を意味することにはならない。

同じく福音のヒント(2)で触れられているが「御国が来ますように」は「み国を来たらせたまえ.みこころの天に成るごとく 地にも成させたまえ.」は同じことだと思う。ただ、この句を自分の理解で言い換えようとするとなかなか難しい。実在している国はかなり不完全な存在で、有益でも有害でもある。み国を来たらせたまえと祈ることは現在の体制を認めないということでもある。みこころの解釈は一人ひとり異なるから、現世で形となるみこころが自分にとって受け入れられるものかもわからない。私は5節からの話は「御国が来ますように」に対する解説と考えている。2人にとって必要な物事は異なっている。求める側の立場に立って読むのと答える側に立って読むのではかなり印象が違う。しつように頼めば通るとあるが、求める側の人は、しつように求める時に、当然本当にこれは求めるべきものなのかと考えるだろう。何とか自分の届く範囲で済ませて友人に迷惑をかけない方が良い道だと考え直すかも知れない。答えとしては「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」だろう。「み国を来たらせたまえ」は聖霊を下し給えという意味だと解釈している。だとすると、この世の国や体制に関わらず、御国はこの瞬間にも来る時には来る。遠い将来に対する願望の表明ではない。祈っている瞬間の問題となる。

4節では、まず「わたしたちの罪を赦してください」が先行している方が分かりやすい。「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく」は祈る度にいつも変だと思う。一度犯した罪は消えることはない。赦すと言われても事実は消えない。それでも赦してもらえないと前に進めない。神に対して罪を犯すということはどういうことだろうか。信徒として考えると、自分の意思で信仰告白した神との約束一点に絞られるのではないだろうか。それ以外のことは、社会的な契約であって人と人との間のことだと思う。信仰告白がどの程度自分の行動に影響を及ぼすと考えるかも一人ひとり違うだろう。心を尽くして主を愛すという言葉の意味が問われる。胸を張って大丈夫と言える人はいない。他人に比べて私はマシだと考えるのは意味を持たない。そう考えると「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」は新たな約束となる。主の祈りを祈る人は神に対して「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と約束していることになる。つまり、人を皆赦さなければ神との約束を果たすことはできない。ただ、赦すためには赦される人が負い目を自覚していなければいけない。罪がある、約束違反があったという理解の一致がない所に赦しの関係も成立しない。ここが超えられない時は聖霊の力に頼ることになるのだろう。

福音のヒント(5)にある『聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です』に共感する。人と人とがつながれなくなるのは、罪の自覚がないときと、罪を赦すことができないときに起きる。理解の一致と愛が両方必要だ。事実は明らかにされ、罰が下されない状態が望ましい。福音書には繰り返しそういうエピソードが出てくる。私は、そういう話を読むと心が癒やされる気持ちになる。

現実社会との関係で見ると、最近のアメリカの中絶禁止は違憲とならないという司法判断が思い当たる。ProLife派の主張は、簡単にまとめれば「受胎した時点で命は始まっているから、中絶は殺人だ、殺人は犯罪だ」というロジックだ。筋は通っていると思う。一方で、中絶ができないことで人生が変わってしまう人もいる。ProChoice派の主張はまだ生まれていない間は母体の一部で決定権は母親となる前の女性の権利だとする考え方だ。その考え方に立つ人も、どの程度が妥当な判断の範囲に入るかは意見が分かれる。何週までとするかなどは典型的なものだろう。

科学が進んでくると、男性、女性という区別も二元的でないことが分かってくるし、脳死問題など何をもって生きているとするかということも簡単には判断できなくなってくる。生殖医療で受精させた卵子を子宮に戻す前の状態をどう扱うかも原理主義的な判断を困難にする。何らかの方法で線引して、良いことと悪いことを決められるようにしないわけにはいかないが、それはもともと善悪があってそれを解明するというよりは、取り決めとして現在の判断をこうすることにしようという合意を形成する作業と考える方が合理性がある。

もともと御心がある。それに従うのが正しいという考え方は私はキリスト教の考えとは相容れないものだと思っている。そうではなくて、聖霊を下し給えの方が良い。命を大事にする方向で取り決めを進めていくのは望ましいことだが、教条的になっても御国は来ない。現実をできるだけ正確に捉え、認識を一致させた上で、そのたった一つの問題、紛争の出口を見つけていくのを基本にするのが良いのだと思っている。そういう意味では、真実と愛があれば陪審員制度は御国を来たらせるものとなるだろう。

事実あるは罪の存在を明らかにすることなしに赦しは機能しない。個々の事実に向かい合わずに正しさを説いても未来は拓けないと思う。

法的に中絶を殺人に位置づけるのは現実にあわないと思う。ただ、ProLifeの思想は尊重されて良いと思う。もし、福音派の宗教指導者が法制化を煽っているとすれば、それは宗教団体としてはかなり危ない所に来ていると考えざるを得ない。対立を煽って敵と味方に分断し、正義の勝利を主張して多数を得てもそれは滅びへの道である。正しく立派な人達の集団は危険だ。もっと緩い多様な意見が林立しつつ協力し会える集団のほうが望ましい。

※画像はWikimediaから引用したThe Lord's Prayer (Le Pater Noster), between 1886 and 1894, by James Tissot. Brooklyn Museum, New York