2022年7月22日の日経朝刊に『女子大は多様な性の居場所 日本女子大学長 篠原聡子』という記事が出ていた。
日本女子大では15年に付属中学に性同一性障害の児童を持つ保護者から「受験をしたい」と相談を受けたのを契機に検討を始めた。1年間の議論の末に断念したが、大学で議論を続け、20年3月に24年からの受け入れが決まった。
と書いてあってすごいと思った。
私の母校の自由学園は1921年に女子教育として始まった。女子教育で自由学園って改めて振り返るとすごい名前をつけたものだと思う。普通選挙が始まる前で、女性議員が誕生した1946年より25年も前のことである。年齢的には私より50歳ほど上になる。女性は大人になっても一人前に扱われることはなく、民間では創立者の羽仁もと子のように職業婦人は存在していたが、完全な男性社会だったと思う。コトバンクで自由を引くと「自由とはまず第一に、強制や束縛を受けずに気ままにふるまえることを意味する」と出てくる。女性が強制や束縛を受けずに気ままにふるまえることが困難な時代に良く自由学園という名前をつけたものだと思う。
引用した記事には「特に女子大は抑圧されている女性に学ぶ機会を提供しようと門戸を開いた歴史的経緯がある」とある。社会が女性を一人前に扱わない状態では、ただ、女性が入学できるだけでは自由な学びは得られない。意見も聞いてもらえない可能性が高いから、保護された空間を作ることには意味があっただろう。今でもなお社会的に女性が男性と対等に扱われているとは言えないが、少なくとも知識としては男女平等は否定されなくなった。建前としか考えない人もいるだろうが、おおっぴらに主張すれば差別するものとして糾弾されるようになった。
出生時の性別が男性で、自認する性が女性であるトランスジェンダーが女子大で学べることは素晴らしいことだと思う。記事にあるように性的少数者は決して珍しい存在ではない。社会システムには出生時の性別で判断する強制や束縛が織り込まれているので、まずはそういった強制や束縛のない空間が準備され、その人の健全な成長に資することができれば素晴らしいことだ。ただ、女性であることがマジョリティである女子大社会ではトランスジェンダーの人はマイノリティとなり、一緒に生きていくのは簡単なことではない。性自認が女性である人に対して男性として恋愛感情を持つなどの固有なトラブルも起きるだろう。しかし、やがてよりインクルーシブな環境に成長できる環境に育っていくと期待している。社会全体でもうまく行けば、やがて日本女子大は入学資格で性を問う必要はなくなり、現在の強力校より人材輩出でも研究成果でも結果を出すのではないかと期待する。
マジョリティ側にいる人は、マイノリティの人が感じる不快に気付くことが難しい。当たり前だと思っていることには疑問が持てないからだ。渡しの場合は、肌の色が違うとお金を持っていてもサービスを受けられなかったショック程度の経験しかないが、日々の生活で繰り返し制度的な不快を味わっている人はたくさんいると思う。何よりまず安全・安心が守られることだと思う。バリアフリーがやがて社会全体を豊かにしていくように、脅威を感じる人、困っている人を大事にできれば社会は良くなっていくのだと思う。母校自由学園も自由な社会の構築に貢献してほしいと願っている。
資本主義的な観点に立てば、資本家も客も金が大事になる。力の強いものか、人数が多い集団を相手にしないと儲けられない。儲けられなければ持続性がない。しかし、その考え方に忠実に社会を運営すると、マイノリティの不利は解消されず、格差は拡大してしまう。再配分で格差を解消しようとする考え方ではマイノリティが同じ人間として扱われていると感じることはできない。女性は数があるのでかなり対等に扱われるようになったが、まだまだ改善の余地があり、高齢者人口の増加で身体的に強靭でない人も人数が増え社会システムも徐々に対応が進むようになった。トランスジェンダーというよりマイナーな存在に意識が及ぶようになったことは素晴らしいことだと思う。彼らが不自由を感じないような社会に近づけば、社会全体がやさしく豊かで持続的な方向に動いていくだろう。
マイノリティへの配慮は一見無駄に見えても、強いものが焼き畑をするような、為政者が戦争をして国民を戦場に送るような社会を目指すよりは遥かにマシだ。勇ましい声に耳を傾けるより、透明性が高く事実に即した判断が可能な社会を志向するのが良いと思う。
本件に関して言えば、男性を自認するトランスジェンダーの問題も検討される必要があると思うが、長い目で見ればジェンダーを強く意識しないで済む社会に向かうのではないかと思っている。マイノリティを含めて安全性が高まらないと達成できない。