新生活93週目 - 「七十二人を派遣する、七十二人、帰って来る」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第14主日 (2022/7/3 ルカ10章1-12, 17-20節)」。並行箇所はないが、マタイ伝10章、マルコ伝6章、ルカ伝9章に12弟子の派遣がありよく似ている。

福音朗読 ルカ10・1-12、17-20

 1〔そのとき、〕主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。3行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
 17七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

2節に「収穫の主に願いなさい」とある。なぜただの主ではなく収穫の主なのだろうか。「収穫のために働き手を送ってくださるように」とは何を意味するのか。「平和の子」とは何を意味するのか。

伝道活動であることは明らかだが、その時のイエスは人間イエスである。復活のイエスではない。人の子イエスが特別な人で救世主であると伝えることが弟子たちの伝道だったのだろうか。イエスが道を示し、彼に従っていくことで様々な苦痛から開放してもらえると伝えることを使命と感じていただろう。現代の政治活動に近い感じがする。これまでの常識を覆す説をとなえ、実績も重ね、支持者を増やしていく。支持者はイエスとの距離の近さが偉さの指標になる。人の子イエスは神から遣わされた人物で、その活動を応援する弟子たちは側近となる。しかし、イエスは組織化、政治結社化を指向していたようには思えない。イエスは「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と言っている。神の国はあなたの近くにあるととれないこともないようだ。

この聖書の記述が事実そのものであれば、イエスがしばしば行使しているスーパーパワーを伝道中の弟子たちが使えたことに驚き喜んでいる。ただそれが自分の力ではなくイエスによるものだと考えている。自分は無力であることを知りながら、世直しに貢献できたという驚きがある。これは、現代のクリスチャンだと、支配被支配で成り立つ社会で、虐げられている人の解放に貢献できる感覚に近いのではないかと思う。

帰還後にイエスは「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」と言ったとある。また「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とあるので、神が絶対的な権力者で、あらゆる敵は神の支配下にあり、神が弟子たちの正当性を裏書きしているのであなたがたは仕事を遂行することができたと言っていることになるだろう。

本当にイエスは後半の発言をしたのだろうか。

思想信教の自由は個人が選ぶことのできる根源的な権利で「神」もそれを統制することはできないというのが現実なのではないだろうか。力による支配が機能すると考えるのも自由で、少なくとも短期的に見ればうまく機能する。一方、新約の教えは脱支配被支配関係と言える。有能であるから偉いというわけでも、罪の結果として不幸があるという因果律を認めているわけでもない。身内を守ることを目標とせず、つまり支配構造によらずに平和を実現することが求められている。だから、個々の自由意志に基づいて新しい社会を構築していくことになる。

私は『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』というのが福音のメッセージだと思う。愛が機能すると信じる人が多数を占めれば平和が来ると信じられるかどうかが決め手になる。収穫の主が収穫するのは、自由意志で新約の信仰を有する人を増やすという成果を期待している神、あるいは代理人ということと考えることができ、収穫のための働き手は霊だろう。弟子であろうと誰であろうと一人の人間に見える世界は狭く、見えていると思っている景色も歪んでいる。しかし、突然今まで理解できなかったことが分かってしまう体験はしばしばおきる。私は、それを霊の働きと呼んでも良いと考えている。自分のあるいは2人の弟子が普段できないことであっても、霊の助けを借りればできてしまう。それは「あり」だと思う。

『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』は信仰だから、思うかどうかは個人の自由だ。しかし、『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』というメッセージが届かないと『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』と考えることは難しい。だから、伝道は必要なのだと思う。人間は代替わりしていくから、そのメッセージはずっと伝え続けるしか無い。終わりのない営みである。「平和の子」は『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』が心に入って、霊を受ける人のことだろう。その地に誰もいなければ、霊は降らない。短期的には伝道は失敗である。ただ、『神の国はあなたがたのすぐ近くにある』というメッセージが人々の記憶に残れば、時を経て芽を出すかも知れない。伝道とはそういうものだろう。

人間イエスは「あなたがたには見えないかも知れないが神の国はずっとここにある」と信じていたのではないかと思う。信じていない人から見れば、全く現実に合わないが、実はそれこそが現実だったというのが復活の信仰と言ってもよいだろう。自分の力で戦うのではなく、霊とともになすべきことをなす。それは一人の個人の自覚に基づく多くの行動によって進んでいくものだと思う。

現実的には組織化しないと、教義を維持することは困難だ。聖典を決め、善良な組織を構成し、具体的な成果を目指すしか無いが、徒党を組めば必ず専制と隷従の罠に落ちる。だからしばしば「神の国はずっとここにある」という信仰の原点に戻る必要がある。現実とのギャップは分析し、時には力を合わせて覆していかなければ変化は怒らない。例えば、選挙がそのタイミングとなる。

見えていないかも知れないが神の国はずっとここにある。価値観も外見も背景も違っていても、共に生きることはできると信じられる社会を目指して、伝道活動を続けていけば良いのだと思っている。福音のヒント(1)の「復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題」という認識に共感する。人間イエスは福音伝道を組織化して展開したが、実際の力は収穫の主が送る働き手の助けにある。聖霊の助けを得て伝道を続けることが求められている。権威主義を進めるものに力を与えてはいけない。聖霊の力を自分の力と誤解してはいけない。政治家であろうと牧師であろうとひとりひとりの人間は単なる人間に過ぎない。誠実に行動していても、霊が去れば正しい判断ができなくなる。