新生活92週目 - 「サマリア人から歓迎されない〜弟子の覚悟」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第13主日 (2022/6/26 ルカ9章51-62節)」。wikipediaのサマリアの記述では、アッシリア捕囚の後「アッシリア帝国からの移住者が入植してきて、アッシリアによりサマリア県が置かれた。」と書かれている。ガリラヤとサマリアはもともとは北イスラエル王国に属していて、エルサレムはユダ王国(南イスラエル)、サマリアはイスラエル王国(北イスラエル)の首都に当たる。

福音朗読 ルカ9・51-62

 51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55イエスは振り向いて二人を戒められた。56そして、一行は別の村に行った。
 57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

ガリラヤからエルサレムに行くのに、古都サマリアを経由ルートを取ったのだろう。ヨルダン川沿いに南下すればサマリア中心部を通らないで行けるような気がするが、あえて選んだのだろうか。アッシリア捕囚は700年以上前の話なのに依然としてガリラヤとの関係は他国のままだったということだろうか。旧約聖書を読んでいると、ユダヤ人は激しく排他的な民族に見えるので、混血の人を同族と見なかったということだろうか。

アッシリア捕囚がどういうものだったかは良くわからないが、住民全員を連れて行くのは不可能だろうから、意のままにならない人を殺すか、奴隷化して切り離すケースと土地からは切り離すが、遠隔当地のための情報源として捕虜を使うこともあっただろう。逆にアッシリアから人が来て特権階級につき、事業も行ったのだろう。一般人は何とか平和に生きていける道を探るから、気に入らないことがあっても順応していき、100年も経過すればそれが常態になる。ただ、アイデンティティを強く意識している人が残るケースもあり、民族自立、独立運動を始めることもある。サマリア地方にもアッシリアにアイデンティティを持つ人も、ユダヤにアイデンティティを持つ人もいたのだろう。

人間イエスはユダヤ教徒の一派で、特異な聖書解釈をした指導者だから、異端と見る人も時代の変化が起きつつあると従う人もいただろう。サマリアもローマの属国、傀儡政権というべきヘロデ王の統治下にあった。ローマの恩恵はあっただろうし、ローマへの反発もあったと思われる。人間イエスがユダヤの独立運動を指揮して成功する未来を夢見た人もいたに違いない。「村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」とあるのは、サマリアこそが再興ユダヤの首都であるべきと考える人が多かったという事実を伝えているのではないかと思われる。私は、福音のヒント(1)の「イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅」という考え方に賛同する。独立を勝ち取ることと支配権を握ることは必ずしも一致しない。愛の国は支配を受けないが、支配もしないという従来の国概念とは全く違うものだと思う。弟子たちも、サマリアの人も勝利する未来を夢見ているから上下関係にこだわってしまっている。

それでもイエスの集団に夢を託す人が現れたことが書かれている。57節からの「弟子の覚悟」はマタイ伝8章に並行箇所がある。この部分はサマリアと関係ないのかも知れないし、首都サマリアではないサマリア地方の村での出来事かもしれない。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」は私について来ることは王宮への道ではないという意味だろうか。聞いた人がどうその言葉を解釈したかはわからないが、イエスにはあなたが求めていることは私についてきても得られないという意味だったのだろう。この誤解は現代でもずっと続いていると思う。強大なキリスト教国作り上げてその王国が世界を支配すれば神の国が来ると考える人は後をたたない。私自身、そういう幻想をいだいていた時期はあった。もちろん、ユダヤ教であれ、仏教であれ、無宗教であれ、この世の王を有する王国の支配は幸福をもたらさない。まず、最初の人へのメッセージは誤解するなというものだと思う。マタイ伝の並行箇所ではこの人は律法学者と記されている。

2人目の「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われたはどうしたのだろうか。従ったかどうかは書かれていない。背景は書かれていないから、なぜ彼が「わたしに従いなさい」と言われたかはわからない。マタイ伝の並行箇所ではこの人は弟子の一人と記されている。

3人目の「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」はマタイ伝には出てこない。

3人に共通するのは、自立と神との直接的な関係に生きろというメッセージだと思う。人は群れなければ生きていくのは困難だが、組織化すると支配関係が生まれる。支配関係は依存関係の延長で生まれてくる。一定数の依存関係が支配関係を生むとその向こうに専制と隷従が待っている。現実には依存からも非依存からも自由になるのは難しい。無理だと思うが、厳しい現実を肯定してしまうと、それが戦争につながってしまうこともある。やれることは、身近な小さなところで依存関係を注意深く解きほぐすことなのではないだろうか。小さな独裁者を生まないように努力することはできる。依存が独裁を生むからだ。

参議院議員選挙が迫っている。小さな独裁者に依存して大きな独裁者を生んではいけない。愛国を語る人に力をもたせてはいけない。安全保障を無視するわけにはいかないが、社会保障が優先されなければ不幸な歴史を繰り返すことになると思う。恐怖に乗じて、一人ひとりの生活品質が向上する道を探る力が弱まることは望ましいことだとは思わない。

※イエスの時代の地図(wikimediaから引用)